2007/10/28 (日)

キュベット : 200710 ウェットとドライの望ましい共存関係

 近年、バイオインフォマティクス的な手法を用いた解析が比較的メジャーなものとなったことで、ウェットな実験を行う研究者とコンピュータを用いてドライな解析を行う研究者とが共同研究をすることは、さほどめずらしいことではなくなった。しかし今度は、こうした共同研究の機会が増えたことで、ウェット側とドライ側の相互理解の不足から摩擦が生じるという現象がみられるようになった。ここでは、おもにドライ側の研究者からみた、ウェットとドライのあいだの摩擦の現状と、とるべき対応策について述べてみたい。  筆者のみるかぎり、わが国では、ドライ側からウェット側に共同研究をもちかける例はほとんどなく、ウェット側からドライ側にもちかける場合がほとんどである。ウェット側はドライ側に対し、実験で得られた結果を解析して仮説を証明してほしい、実験で得られた結果をデータベース化してほしい、といったことを求める。ドライ側からすれば、ウェットな実験から得られたデータを利用できることは魅力的なので、このような共同研究は喜ばれることが多い。

 ここで共同研究の現場の一例をみてみよう。共同研究がはじまって、データがドライ側に送られてくる。データのやりとりの回数が増えるにつれ、ドライ側の出した解析結果がウェット側の意図したことと異なるという事態が生じる。ウェットな実験を行っている研究者にとっては実験によって得られた結果は絶対であり、「そっちの解析はコンピュータでできるのだから、こっちの結果に合わせてくれよ」とドライ側に申し出る。すると多くの場合、ドライ側が折れる。そこで気をよくしたウェット側は、「ちょっと条件を変えて実験をしてみたんだけれど、解析してくれないか」と、また膨大なデータを送ってくる。するとドライ側には、「少しは統計学の本でも読んでからデータを投げてくれよ!」という言葉にならないため息が生まれる。しかし、ウェットな実験をやっている研究者の多くは、統計学の本を読む時間があったら、もう1回実験をしようと思うのではないだろうか。

 このように、ドライな解析を行っている研究者が”ただのお遣い”になってしまっているケースは非常に多い。そして、”お遣い”でいることをよしとしないドライ側の研究者の多くは、共同研究の相手を選んで制限するという手段をとらざるをえなくなる。結果として、ウェットはウェットどうし、ドライはドライどうしで閉じてしまうことになる。このような状態がつづくなら、ウェット側とドライ側のあいだに真の相互理解は生まれないだろう。

 筆者は、このような問題の根底にはドライ側の主体性欠如があるのではないかと考えている。ドライ側がいつまでもウェット側の出した実験結果に腰掛けているようでは、望ましい共存関係を築くことはできないだろう。ドライ側とウェット側が共存できるかどうかは、ドライ側のがんばりにかかっているのではないかと、自身、ドライ側にいる筆者は考える。ドライな解析から仮説を立て、それをウェットな実験で証明するという、”ドライからウェットへ”の流れがある研究は、近年、概して高い評価を受けているように感じる(このときのウェット側の莫大な実験が評価されているという意見もあるが・・・)。このようなドライ側主体のがんばりがあってはじめて、ウェット側との対等なディスカッションが可能になるのではないだろうか。  最後に、ウェット側の研究者むけに、ウェット側と共同研究をしているドライ側の研究者がこぼした一言を紹介したい。「来月までに有意差を出したいという注文だから、いろいろな検定方法を試したんだよ。でも、厳密には、n回検定をしたら有意水準はn分の1になる。そうしたら優位じゃなくなるんだよねえ・・・」。この皮肉がわからないウェット側の人は、ドライ側の人にぜひ聞いてみてください。そこから新たな相互理解が生まれるかもしれません。










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