2008/10/28 (火)

キュベット : 200810 生化学若い研究者の会50周年記念連載 第1回50年のあゆみ

 

1958年7月、札幌での日本生化学会大会において、自由集会”若い研究者の問題”が開かれ、62名の若手研究者によって、研究の困難な状況や苦しい立場について活発な議論がなされた。”生化学若い研究者の会”(生化若手の会)は、それらを解決するための全国的な強い組織として生まれたのである(生化学, 411, 30, 1958)。そして、その結成から50年が経過した2008年12月、第31回日本分子生物学会年会・第81回日本生化学会大会 合同大会 (BMB2008) において、”生化学若い研究者の会50周年記念事業”が行われる。本欄では、3回にわたって、生化若手の会の歴史を振り返ってみたいと思う。

 

1988年に倉元らが編纂した資料(Biochemistry Today and Tomorrow, Vol.6 臨時増刊)によれば、生化若手の会は当初から若手をとりまくさまざまな問題に取り組んできた。そのなかで、1962年には”若手4原則”を掲げている。これは、①予算の拡大と民主的配分、②研究者の平等の権利――研究者間、研究者‐研究協力者間の民主的関係、③ポストの拡大・公開・保障、④中央、地方の研究機関間の格差解消、の4項目からなり、当時、猛威を振るっていたオーバードクター問題(学位取得後の研究ポストがない)や、大学間格差の問題が、若手を大いに悩ませていたことを示している。

生化若手の会の発足は、生化学が爆発的な発展をとげていた時代と重なっている。1960年代は、DNA二重らせん構造、DNA合成酵素、カルビン回路など、生化学の古典的な成果がたてつづけに報告された、まさに激動の時代であった。きっと、当時の若手は日々発表される成果について、日夜、活発な討論をしていたのであろう。研究対象が細分化されてしまったいまと比べると、うらやましい状況である。また、1966年には、「蛋白質 核酸 酵素」誌上にてこのCuvette欄の連載がはじまった。当時は大学紛争の時代だったこともあり、若手の待遇改善問題に関する企画が集中していた。これは、生化若手の会の夏の学校でも毎年企画されていたようである。

1970年代からは、女性の研究現場への進出増加にともない、婦人研究者問題を扱う企画が増えている。研究現場において女性が被るさまざまな制約は、当時から大きな問題であったはずだ。近年では”男女共同参画”として(子育てをする男性を含めて)、女性研究者の問題が学会などでも積極的に議論されるようになってきたが、残念ながら、現在でもたとえば、大学教授における女性の割合はわずかでしかない。この問題の解決までの道のりがいかに長く困難であるかを思わせる。

1980年代には、若手をとりまく環境に変化が生じてきた。毎年のように取り上げられてきたオーバードクター問題の企画が、1986年を最後にピタリと止んだのである。当時のバブル景気や、1990年ごろからはじまる”団塊ジュニア”大学進学をまえにした大学の増設・新設によって、教員ポストが一気に増え、オーバードクター問題は氷解したのである。一方で、この時代に大きく発展した遺伝子組換え法は、分子生物学に革命的な発展をもたらした。また、1987年には利根川 進博士が日本人ではじめてノーベル医学生理学賞を受賞したこともあり、社会は生命科学にきわめて楽観的な期待を抱くようになった。

1990年代に入ると、研究室にさまざまなキットやロボットが導入され、大型予算による任期雇用の増大、公的研究機関や大学院定員の大規模な拡大もあり、研究現場はいままでになく活況になった。しかしその一方で、この変化は新たな影を落とすこととなる。一時的な任期雇用は増えたが正規雇用はほとんど増えないという”ポスドク問題”がうまれたのである。生化若手の会では1998年ごろからこの問題に取り組んでいるが、大学院生・研究者の就職問題はかつてないほど深刻に議論されている。

 

最近、生化若手の会は、全国の多様な生命科学分野の若手が集まる組織として再び活性化しており、交流を深める場として夏の学校を開催している。2008年は150人が参加し、毎年、参加者は増加傾向である。しかし、”若手4原則”はまだ達成されたわけではない。生化若手の会はこれからも若手どうしの全国的なネットワークとして、その時代が抱えるさまざまな問題と向き合いながら生命科学の発展に寄与していかなければならない。

 

片木りゅうじ(キュベット委員会)










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