2008/12/28 (日)

お知らせ : 200812 生化学若い研究者の会50周年記念連載 第3回 生化学から分子生物学、そして、ゲノム科学へ

 

本校の執筆にあたって、”生化学若い研究者の会発足について”筆者が1958年に『生化学』誌に投稿した文章を生化若手の会から送ってもらった。これを読み返してみても、札幌で開かれた生化学会で学会理事会と交渉をした記憶はほとんどよみがえってこない。ところが、学会のあと、生まれて初めて足を踏み入れた北海道の旅は鮮明に覚えている。そのころの北海道は貧しかった。札幌から旭川への満員列車でこの旅のため父にもらった時計を掏り取られ札幌の狸小路の露店で手に入れた作業ズボンは、誤って川に落ちた翌日、物干し竿につるされて半ズボンに縮まっていた。このような苦労のあと登った大雪山黒岳の頂上にはコマクサが咲き乱れ、夢に見たウスバキチョウが舞っていた。”国破れて山河あり”を目の当たりにして、筆者の生物学研究への志が固まった瞬間であった。

 

朝鮮戦争が終わって、わが国の経済は復興し社会は落ち着きを取り戻していた。大学や学界もそのころには国際生化学会が開催されるほど再生していた。しかし、庶民や若者は貧しく、なによりも、戦後の民主化運動と戦前からの封建的体質との相克が社会の各層に顕在化し、1960年の安保闘争を控えた労働運動が激化しつつあった。大学の研究室の状況も例外ではなく、筆者が『生化学』誌に投稿した文章にも”生化学の研究の困難な状況や若い研究者のおかれている苦しい立場が明らかにされた”と記されている。生化学研究の困難な状況がなにをさすのか、いまとなっては詳らかではないが、おそらく、大学の研究室における徒弟制度的な閉鎖的環境に対する危機感と、わが国の生化学と世界の新しい生物学の展開とのあいだのギャップを敏感にとらえていたのだと思う。

 

結成された生化若手の会は、奨学金の増額やポスドク制度の実現など生活に直結した課題をとりあげているが、会員募集要項に”自分の研究内容を詳しく書いた名簿に会費を添えて送る”と書かれているように、若手が新しい学問を引っ張るという意欲が感じられる。ポスドク制度もたんに生活費を確保することではなく、所属する研究室を離れ自らの意志で研究分野を変えることができる機会をあたえることを重視したと記憶している。筆者自身は発足したばかりのこの制度を利用して基礎医学分野への転身をはかったのだが、異分野への申請が不利にはたらいて補欠の1号となり実現できなかった。

 

これを機会に渡米し分子生物学の道を志した。筆者自身は細菌染色体の複製の分子機構と制御の研究を行ったが、9年間の在米中、多くの研究者との交流のなかでさまざまな研究方法や実験デザインを学ぶことができた。なかでも、尊敬するA. Kornberg博士とは、DNA研究について細胞レベル (in vivo) の理論的・実験的解析を重視する筆者と、精製酵素によるin vitro研究をモットーとする博士との方法論の違い、メリットとデメリットについてよく話し合ったものである。2人の議論は共通の友人である岡崎令治さんによって見事に決着をつけられた。in vivoのDNA合成の中間体を、精製酵素を用いた解析によってみごとに証明し、岡崎フラグメントによる不連続合成機構を明らかにしたのである。

 

1969年に帰国したのちは日本分子生物学会の創設に参加し、生化学会や若手の会とは距離をおくようになった。1995年、分子生物学会の学会長をひき受けているとき、因縁の地である北海道で生化学会との合同年会を開くことを計画した。筆者の狙いは、2つの学会の若い研究者が直接に交流することによって分子生物学と生化学の共通と違いを認識し、新しい研究方法の創出につながるような運動を起こすことであった。そののち十年あまりがたって、合同年会の開催が習慣のようになってきているが、若い研究者のあいだに筆者が狙った効果は生まれているだろうか。一方、ゲノム科学に代表される生物学と情報科学とを融合した新しいサイエンスが世界の若い研究者をひきつけている。筆者は昨年、いち早く新しい波に乗った微生物研究者とともに日本ゲノム微生物学会を創設した。筆者のような高齢者に負けず、生化若手の会は、生化学の枠組みにとらわれず、自分たちが生物科学研究を先導するのだという意気込みを忘れないでほしい。

 

吉川 寛

(大阪大学名誉教授、奈良先端科学技術大学院大学名誉教授、生化学若い研究者の会発起人)










© 2017 生化学若い研究者の会 all rights reserved.