2009/4/28 (火)

キュベット : 200904 生化学若い研究者の会創立50周年記念行事を振り返って

 生化学若い研究者の会(生化若手)は、2008年で創立50周年をむかえた。これを記念して、BMB2008(第31回日本分子生物学年学会・第81回日本生化学学会合同大会、2008年12月9~12日、神戸)において、シンポジウムと祝賀会が開催された。

 

 12月10日の夕刻、神戸国際会議場にて、生化若手のOB・OGである5名の基調講演からなるシンポジウム”生化若手と生命科学”が開催され、130名もの聴講者が集まった。まず、世話人である筆者が生化若手の概要を話したのち、大島泰郎博士(東工大名誉教授)が生化若手の設立当時について話された。生化若手は1958年に創立され、1960年に一泊のミニサマースクールを実施したのち、1961年7月に第1回夏の学校が群馬県赤城山の大沼湖畔で開催された。前橋駅前で案内をするスタッフのようすや講義の風景などがモノクロ写真で紹介され、当時のようすが垣間見えた。今回の日本生化学会の会頭を務められた大隈良典博士(基生研)は、修士1年(第7回)から博士3年(第11回)までのあいだ、夏の学校に参加された時のようすを語られた。当時は分子生物学の興隆期で、貧しかったが夢のある時代であり、最も参加者が多かったという。瀬原敦子博士(京大再生研)は、夏の学校や京都支部の集合写真を紹介されるとともに、婦人研究者問題の調査のために全国の研究室にアンケートを送ったエピソードなどを話された。松岡 信博士(名大院生命農学)は、第20回夏の学校の総会のようすを紹介しながら、博士号取得後の就職問題(オーバードクター問題)が当時の最重要事項であり、この活動の経験から大学に残る危険性を痛感して国の研究機関に就職したという経歴などを話された。また、岩田 想博士(京大院医)は、東京、筑波、フランクフルト(ドイツ)、ウプサラ(スウェーデン)、ロンドン(英国)、京都と各地で研究を続けてきた経験をもとに、研究のおもしろさやつながりの大切さを若手に対して熱く語られた。最後に、筆者とともに世話人を務めた稲垣賢二博士(岡山大院自然科学)が閉会の挨拶をして、約2時間のシンポジウムは終了した。

 聴衆の多くが生化若手の関係者であったため、公演中も会場からコメントが入るなど、シンポジウムは終始なごやかな雰囲気で進んだ。と同時に、いままで生化若手に関わったことのない学生も多数参加していたようで、学会期間中にたくさん声をかけられたことはたいへんうれしかった。

 

 祝賀会は、一般65名、学生29名が集まり、OB・OGのほか、日本生化学会事務局や協賛企業の方々など、生化若手の関係者が勢揃いした。懐かしい顔に会って昔話に花が咲き、受付前から会場は活気にあふれていた。日本生化学会会長の中野明彦博士(東大院理)の挨拶のあと、生化若手の初代会長である千谷晃一博士(藤田保健衛生大)の乾杯で祝賀会ははじまった。参加者は各世代が交じり合った10人ずつの丸テーブルにつき、食事や歓談に興じた。会場正面にはスクリーンが設置され、OB・OGから当時を振り返る話題が提供された[話題提供:三井恵津子博士(武田計測先端知財団)、鈴木和男博士(千葉大医院)、倉元綾子博士(鹿児島県短大)、三品裕司博士(米国Michigan大)、木賀大介博士(東工大院総合理工学)]。当時の懐かしい写真や資料、エピソードなどがつづき、話が途切れることはなかった。最後は、2008年夏の学校の実行委員長である飯島玲生さん(阪大院生命機能)から現在の夏の学校のようすが紹介された。また、PNE編集部から、1966年からつづく本キュベット欄について気体の言葉があった。まだまだ話がつきる気配はみられなかったものの、予定の2時間はゆうに過ぎ、開始から3時間に迫ろうかというなか、一本締めにて祝賀会はお開きとなった。

 

 この企画をとおして、生化若手が多くの方に支えられていることを知るとともに、50年間、今日まで途切れることなく続いてきたことの偉大さをあらためて実感することができた。次号では、この50年間に生化若手がどのような役割を果たしてきたのか、そして、つぎの50年にむけて何をめざしていくべきかを考えてみたい。

 

加村啓一郎(東京大学大学院理学系研究科)










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