脳神経分科会i

〜複合領域から成る神経科学〜

講師
藤田 一郎 先生 (大阪大学大学院基礎工学研究科脳科学講座)
ヘンシュ 貴雄 先生 (理化学研究所脳科学総合研究センター神経回路発達研究チーム)


「心」。心は私達にとって、最も身近で、そして最も複雑なものの一つでしょう。

心とはいかなるものなのか?半ば哲学的なこの問いかけに、太古の昔から多くの人が頭を悩ましてきたに違いありません。

近代の幕開けとともに、心が科学的研究対象として成立して以来現在に至るまで、その理解は飛躍的に進んだと言えるでしょう。この過程の中で、脳と、それを構成する神経細胞のネットワークが、「心の座」であることが明らかになってきました。以来この「脳」と「心」の対応を明かにすることが、心の研究のメインストリームに成っています。そして神経科学とは、脳を構成する神経細胞とそれらの相互作用そのものを、あるいは神経細胞と心の関係を明らかにしようとする、学問領域であると言えるでしょう。

この神経科学は現在、近年の二つの大きな技術的な発展を通じて、大きく拡大しています。一つはf−MRI等脳活動非侵傷画像化技術を含む、各種、脳活動記録法の発達。そしてもう一つは、私達が現在広く用いている、遺伝子技術を含む分子生物学的、生化学的実験手法の発達です。

これらの技術革新は既に、それぞれの研究分野の業績を積み上げるのに十分な基礎を与えています。しかし実際のところ、これらの研究を統一的にとらえて、より発展的に心を理解するために、何をするべきか、何ができるのか、ということについては十分に検討が進んでいないように思えます。

今回の分科会では、「視覚」という心の機能の一つを媒介にして、このような事柄についてアプローチしてみたいと思います。

生命科学に携わる多くの人に、「21世紀は脳科学の時代である」、と考えられています。21世紀の幕開けに企画された今回の分科会の中から、「心の発見」につながるような素晴らしいアイデアが生まれば、と思っています。


オーガナイザー
タムケオ ディーン (京都大学生命科学研究科)
渡邉 博康 (名古屋大学医学研究科)


講演要旨

複合領域から成る神経科学
講師:藤田 一郎 先生(大阪大学大学院基礎工学研究科脳科学講座)

「ものを見る」ことは容易であり、努力を要せず、主観的には一瞬のことであり、その背景で脳による複雑な情報処理があるとは考えにくい。しかし、実際には、ものを見る際に、脳は膨大な仕事を行っている。かの物理学者リチャード・ファインマンは、視覚を、「プールの一角に浮かぶ虫が、四方八方からやってくる波の様子から、泳ぐ人たちの数、位置、動きを検出する」ことにたとえた。この比喩は、網膜で受容した電磁波情報から対象を知覚している脳のはたらきの規模と難しさを、見事に要約している。

網膜において、視細胞ひとつひとつは、自分が受けている光の強度と波長の時間変化を情報として検出し伝えるが、その光がどの距離から来たかを知ることはできない。すなわち、この段階で、外界3次元世界の奥行き方向の情報を明示的に伝える情報は失われる。外界3次元世界は、いわば、色のついた影のような2次元画像情報となってしまう。しかし、われわれには、2つの眼があり、したがって、2枚の画像情報が利用可能である。この2枚の網膜画像から3次元世界を復元する過程に、側頭葉の視覚連合野である下側頭葉皮質が関わっていること を示唆する、われわれの最近の研究成果を紹介する。


大脳視覚野発達の臨界期の成因

講師:Takao Kurt Hensch 先生 (理化学研究所 脳科学総合研究センター、グループディレクター 兼 チームリーダー)

一般的に大人が外国語を習得するのは難しいが、小さな子供たちはそれほど苦もなく習得することが出来る。このように、若い脳では経験に応じて神経回路の組み換えや再構成を行う能力(可塑性)が高いが、この能力は大人になるにつれて衰えていく。大脳皮質の視覚領では、生後のある時期に限って目からの視覚刺激により可塑性が発現し、神経回路が発達して視覚が完成される。この時期を「臨界期」といい、その前後では神経回路の再構成は起こらない。しかしながら、40年前にHubel と Wieselらに発見されて以来、この可塑性現象の機構や意義については依然として不明である。そこで我々は抑制性伝達を人工的に押さえたマウスを用いて、大人に成長した後でも視覚刺激による神経回路の再構成が起こることを初めて確認した。このことより、神経回路の発達には「抑制」という一見反対方向に思える要因が引き金であることが明らかとなった 。

正常な動物では、視覚領の神経細胞は両目からの光刺激に良く応答するものが一定の割合で存在し、普通変化しない。しかし、臨界期のマウスの片目を覆って飼育すると、可塑性が発現して神経回路が発達するので、覆わなかった目からの光刺激に良く応答する神経細胞の割合が増加する。脳内の抑制を押さえたノックアウトマウスでは、大人に成長するまでの間に可塑性は発現しなかった。しかし、精神安定剤の一種(ジアゼパム)を投与すると単眼遮断の効果がみられ、成長したマウスでも、人工的に臨界期を出現させることに成功した。正常なマウスでは、生まれて間もない時期に同じ薬剤を投与することにより、通常よりも早く臨界期を出現させることが出来た。ただし、臨界期を過ぎた後では薬剤を投与しても再び可塑性を出現させることは出来なかった。これは、生涯のうち1回しか出現しない臨界期の意義というものを考える上で興味深い。

これらの結果より、脳機能の発達には抑制性神経回路が不可欠であり、またそれを操作することにより臨界期の出現時期を変化させることが出来ることが初めて示された。本研究の成果は、今後の臨界期のメカニズムひいては脳の構成原理の解明の研究に新たな知見を与えるとともに、再生・移植した脳組織を正常に機能させることへの可能性や育児と親子関係といった脳の正常な発達手法への貢献も期待される。