8月17日(土)10:30-12:00 細胞情報伝達分科会


「大腸菌の社会性---細胞間情報伝達の仕組み---」

講師
石浜 明先生 (日本生物科学研究所・国立遺伝学研究所


はじめに

 1950年に始まる分子生物学の興隆は、大腸菌をモデル生物として研究することで大きく発展した。遺伝子の実体、遺伝暗号、ゲノムの複製機構につづき、遺伝子の情報伝達機構が転写レベル、翻訳レベルで解明され、生命科学の基本的概念は確立されていった。その後、研究者の興味はもっぱら多細胞にうつり、ガン、アポトーシス、脳、発生など華やかな言葉がジャーナルを飾るようになった。もはや生命科学の基本的概念は大腸菌を代表とする単細胞の研究を通じて確立された。次の課題は、多細胞に特徴的な現象だというわけである。
 しかし、1990年代に入り、従来には想像もつかなかった現象が大腸菌で次々と発見される。たとえば、自然死ではなく、自殺遺伝子とでもいえる特定の遺伝子を発現し、積極的に死滅し、残された細胞集団に栄養を供給しその生存を援助しているようにも見える「細菌アポトーシス」とでもいえる現象が発見された。あるいは、植物の種や菌類の胞子様の形態をとり、厳しい環境下でも生存を維持し、特定の条件で生き返るというような休眠状態をとりうるという現象も発見された。大腸菌が示す社会性の発見である。

 大腸菌のゲノムの全シークエンスが明らかとなったことで、こうした現象をも分子のレベルで解明することを目指して、大腸菌分子生物学は新たな展開を見せ始めた。大腸菌ゲノムには約4,000遺伝子の存在が示唆された。しかし、通常の実験室培養において発現している遺伝子はたかだか1000程度であった。つまり、生存のために最低限必要な遺伝子はおよそ1000程度だということになる。果たして、残りの3000遺伝子は一体、いつ何のために活躍するのだろうか?

 この2,3年の間、大腸菌を取り巻く情勢はめまぐるしく動いている。ドラスティックな転写パターンの変化、それに伴ってさまざまな振る舞いを見せることがわかりつつある。こうした現象に、まだ解明されていない残る遺伝子の関与が示唆されつつある。そして、単細胞でありながら、その集合体はあたかも多細胞の分化のように振舞う単細胞的社会性の存在が示されつつあるのだ。

 こうして、この多細胞分化に似た現象の遺伝子発現カスケードを解き明かす研究が始まっている。部分の知識を集積して、全体の知識を再構築できるか?

       今、新世紀の新たな大腸菌学が胎動しつつある。

 本分科会では、新たな大腸菌細胞生物学を提唱なさり、「部分から全体へ」の分子生物学を標榜なさっておられる、この分野での大御所、石浜明先生をお呼びして熱い議論を展開したいと考えています。分科会当日のみなさまのご参加と活発な議論をお待ちしております。


  • 単細胞の大腸菌は、細胞間相互作用を考慮しなくても良いので、 細胞内で完結する情報伝達系の分子機構を解明するのモデル生物として、 分子生物学の勃興と興隆を支えてきた。今我々が知る、ゲノムの複製、 ゲノム遺伝情報の発現と制御に関する基本的概念は、大腸菌分子生物学から 生まれてきた。しかし最近になって、大腸菌に細胞間相互作用がないとする 既成概念が、根本的に問われるようになってきた。

    大腸菌ゲノムには、約4,000の遺伝子が存在することは、 ゲノムサイズから推定されていた。しかし、細胞全蛋白種は、 二次元電気泳動で分析しても、たかだか1,000種類で、多くは、 発現されないで眠っている遺伝子である。普段は発現されていない 遺伝子群を同定する目的で、ストレス応答時の遺伝子発現を調べる 研究が始まったのは、初期分子生物学が終焉を迎え始めた1980 年代になってからである。新たな潮流の研究から、ストレス応答遺伝子群、 ストレス蛋白質が同定され始めた。1990年代、ゲノム全構造が各種モデル 生物で決定された。大腸菌ゲノム全構造の解明によって、総遺伝子数は、 約4,300との推測が公表されたが、予想通り、半分以上は、未知遺伝子であった。
    一方、4,000以上の遺伝子を転写するRNAポリメラーゼ分子総数は、細胞当り、約2,000分子で、遺伝子総数より少なかった。従って、限られた転写装置を、4,000遺伝子間にどのような仕組みで分配されているかを知ることが、ゲノム全体・細胞全体を対象とした包括制御を理解する目的の研究が極めて重要であることが理解され始めた。

    研究の興味は、一挙に自然界でも大腸菌の生態に移行した。

    自然界の大腸菌は、大方、増殖には適さない環境で生存している。その機構を知る目的で、実験室培養でも、増殖停止過程や、その後の生存状態を、長期に亘って解析する研究が始まった。また、異種細菌との共存下、多種生物との共存下、動物体内などで、大腸菌が生存する際の遺伝子発現包括制御機構の研究が始まった。この流れの中から、大腸菌にも細胞間コミュニケーションがあり、集団としての生存戦略をもつ、高度な社会構造をもつことが示唆されるようになった。大腸菌の増殖を停止し、静止定常期に移行する過程の細胞分化の分子機構を中心に、大腸菌社会構造について討論したい。

  • オーガナイザー 鈴木 誉保(大阪大学大学院 工学研究科 応用生物工学専攻 進化生命システム講座)