キュベットheader

2003年

1月| 読者投稿 大学院生諸君へ「なんのためにお金がほしいの?」、官僚様へ「アメリカかぶれ反対!」、教授様へ「知っている=配分の方程式反対!」

 本欄で掲載される大学院生の様々な貧困労苦に関しての意見を読むたびに思うことを、学生ではないがまだ若手のひとりの意見として書かせていただく。

 小生は、80年代後半、日本もバブル絶頂期に差し掛かったころ、アメリカ大学院に留学した。アメリカの多くの大学院では授業料免除がもらえるだけでなく、Teaching Assistant (TA)やResearch Assistant (RA)として奨学金がもらえる。授業料を払い、将来返さなくてはいけない育英会のお世話になる日本の大学院とは雲泥の差!うらやましい!というのはよく聞く話しであるが、とんでもない!ということをお話したい。

 貰う額は大学によって多少違うものの、月に1000ドル(10万円ちょっと)くらい。この額は、シャワートイレ共用の大学寮に入って、必要な教科書等を買い、栄養失調にならない程度に食べ、そして、毎週末ささやかなビールパーティーと5ドルの映画で息抜きをしながら、毎日勉学と実験に勤しむのに必要な最低限のサポートである。一方、日本の大学院生は、高価なしゃれた格好をして、トイレシャワー付きの高いワンルームマンションに入り、休みとなれば海外旅行にでかける。もちろんみんながみんなそうであるとは言わないが、客観的に見ても、アメリカの大学院生に比べて、日本の大学院生は贅沢な生活をしている。

 もともとアメリカの大学院生は入るときから、就職か博士かなどという選択肢をもたず博士をとりに真剣勝負でいく。だから、大学院の研究生活そのものを自分の第一優先のものとして生活する。小生が思うに、多くの日本の大学院生は、大学院進学の動機が曖昧で、そのために研究生活にストレスを感じ、そのストレス発散のためにお金と休日を使っているように思われる。お金がないうんぬんいう以前に、自分達の研究者としての将来をよく考えながら大学院生活を送ってもらいたいと思う。

 とはいえども、物価の高い日本で生活するためには、少々のお金が必要だ。いわゆる学振員の枠は10%ほどと言われているが、20万円もあげる必要はない。半分の10万円にして2倍の数の学生に配ればいい。もちろん、「ボスを知っている」とか「論文1報だしている」などというくだらない審査基準などの抜本的改正が必要だ。また、ポスドクでも50万円近い破格なものがあるが、一律30万円にして、残りを大学院生へのサポートに回すようにすればよい。お金をよくして良いポスドクをとろうというのは幻想で、逆に、これからという大事な時期にハングリー精神を低下させる結果にもなっている。大学院生からポスドクまで、立場を考慮したリーズナブルなサポート額を設定し、評価基準をしっかりさせた選考をしないかぎり、現在の不公平な配分を是正できないだろう。例外的にアメリカで成功した一部の日本人研究者の意見をそのまま鵜呑みにする日本の官僚レベルも問題である。

 結論。日本の大学院生へのサポートは、まず授業料免除を優先させるべきである。また、大学院生ひとりひとりに配分される校費というものがあるが、普通は各研究室の研究費に回される。これをすべて授業料免除に回せばよい。大学法人化すれば可能なことのように思う。一方、もらう学生側の意識改革も必要だ。会社でもらう給料と違って、大学院でお金のサポートをうけるとすれば、それは研究生活を充実させるものであり、遊ぶためにもらうものではない。やはり、博士をとる、立派な研究者になるという目標のためのものである。研究にストレスを感じて文句たらたらの生活であるのなら、大学院に進学する必要ない。日本における就職難と大学院重点化によって定員が増えたことが影響していることであるのかもしれない。アメリカの大学院生と教育制度のいいところに学び、お金をまわす官僚および教授側、そして、それを受け取る学生側の両者の意識改革が、今必要なのではないか。

匿名希望(35才)


2月| 読者投稿に寄せて(1) 院生の暮らしは贅沢か?

1月号本欄で読者投稿をご紹介しました。日米院生比較を土台とした、日米の院生の博士取得に対する“顕著な意識格差”、日本の院生の贅沢な生活などを中心とする興味深い論旨でした。

 そこで、投書にあった“授業料免除こそ合理的な支援である”“院生への経済支援は給与ではなく、‘研究生活を充実させるため(だけ)のもの’だ”という提言に対して、当委員会では本号と次号で検討を試みます。今回は経済面の問題について触れ、議論の前提となっていた“日本の学生は休日にレジャーをし、高価な住居に住み、研究をする意欲に欠けている”というご意見から考察してみましょう。経済的な問題は、当事者と外からの目に温度差があります。客観的な数字を基にして実情を正確に把握することで、建設的な議論をしたいと思います。

 皆様は、大学院生がどの程度の収入で毎月生活しているのかをご存知でしょうか? ’98 年実施の大学生協『第 3 回大学院生の生活に関する実態調査』の東京大学に関する調査結果(以下『院調東大結果』)に依れば月平均収入は 16 万円です。その分布は、5 万~ 10 万円が17.9 %、10 万~16 万円が 29.8 %(総数 162人)となっており、16 万円以下で過半数を占めます。一方、20 ~ 23 万が 16.9 %(含、学振)です。なお、この数字は首都圏の物価などを反映しているでしょうから、他の地域・大学ではこれを下回るものと予想できます。

 収入の内訳は、親からの仕送り、奨学金、アルバイト、TA、RA、そして例外的に学振です。文部科学省の調査「平成 12 年度学生生活調査」結果の概要(注1;以下『文科省調査』)では、博士課程院生で奨学金を受給されている者の割合は 65.6 %、アルバイト従事者は 63.0 % おり、アルバイト従事者でアルバイトがなければ修学困難な者は 57.9 % という結果が出ています。実にアルバイトに従事する院生の 92 % がアルバイトがなければ博士課程に通えない状況であることになります。

 次に、支出を見ましょう。院生の支出で不可避の痛みは「授業料(国立 47,500 円!!/月)」「住居費(3 万円~7 万円;地域差大)」「食費(2.5 万円~)」です。

 院調東大結果から、月平均支出の分布は 16 万円以下が全体の 51.9 % です。支出の内訳は、全体で、総支出約 16 万円のうち 41.1 % が住居費、9.1 % が書籍勉学費、8.9 % が教養娯楽費です。東京で月 6 万円代後半の家賃で高級マンションに住むのは困難でしょう。毎週末の余暇に使えるお金は高々数千円、週末のお出かけも 10 ドルの映画もなかなか出来ぬ贅沢のようです。それどころか、土曜や日曜祝日の登校日数が各々全体平均で 2.8 日、2.5 日です。むしろ、週末のささやかなゆとりさえも研究に費やしているようです。

 院生の経済的自立という観点では、収入面で大きな要素となっている親の仕送りについて触れないわけにはいきません。

 文科省調査によると、博士課程院生の家庭の年間収入は、国立大学で 845 万円(月平均換算で約 70 万円)です。博士課程に進学した院生は、経済的にかなり裕福な層の家庭から輩出されている事が分かります。その原因の一つに、20 代後半になっても教育ローン頼り、又は親のスネかじりの二者択一(若しくは学振)という脆弱な院生経済事情があるでしょう。参考までに、アメリカの院生の経済的状況は、シカゴ大学全米世論調査センターの調査(注2)にありますが、ここでは詳しくは触れません。

 経済的に裕福な層の学生でないと大学院に行き難い。社会人としての自覚が当然求められる 20 代後半以後という年齢層の人材が、研究者になるために必要なお金(授業料、生活費)は親又は教育ローンに大きく依存。そして、決してゆとりのない生活と多忙な日々。それが博士課程院生の多数派の現状です。

 よい研究現場の確立には院生の意識や自立、覚悟も、指導者層の意識や覚悟も共に必須で、その実現のためにこそ国による制度面・経済面の諸整備も必要であり、以上のどの一つを欠いても良い研究現場を作ることは出来ません。

 上記の現状を鑑みるに、国策としての院生経済支援はどうあるべきか。国立大で年間 57 万円という授業料は、院生にとって経済支出の 30 % を占める大きな枷です。これを自立的に支払い可能な程度の公的経済支援というのが、院生給与における一つの目安と考えてよいのではないでしょうか?例えば、21 世紀 COE による RA 給与が月額 7 万円あるとして、その内約 5 万円が授業料支払いに充てられざる得ない現状を、教官も(院生も)心得ていただきたいところです。

 後半は、院生の研究への意識について考えます。

注1;http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/14/03/020325.htm
注2;http://www.norc.uchicago.edu/issues/sed-2000.pdf

(生化若手 PNE キュベット委員会)


3月| 読者投稿に寄せて(2) 院生の研究意欲とプロ意識

 2 月号で掲載致した匿名希望(35歳)の方からの“日本の学生は休日にレジャーをし、高価な住居に住んでおり、研究をするという意欲に欠けている”という趣旨の投書に関する当委員会からのコメントの続きです。前回は、経済面の問題について取り上げましたが、今回は意識の問題について取り上げます。

 まず、院生自身の研究に対する意欲が本当にないのかどうかについて考えてみましょう。

’98 年実施の大学生協『第3回大学院生の生活に関する実態調査』の東京大学に関する調査結果では、大学院の最大の進学動機(1つ選択)は「自分の興味を深めたい」31.5 %、「高度な専門知識の修得」30.9 %で、「まわりが進学する」「まだ社会に出たくない」「資格を得る」「就職に失敗」「就職に有利」で計 11.7 %です。少なくとも進学の段階では、意識の傾向は明らかでしょう。

 ただ、進学以後はどうか。その点では議論は大いに分かれるでしょうね。識者の見解として、例えば大阪大学学長の岸本忠三さんは、学生の学力低下より迫力低下こそ問題だと述べています。進学後の研究意欲の低下を示す客観的なデータは手元にありませんが、大学院生数の急増と不況に伴い、優秀な学生が大学院に進学しないといったことは充分考えられます。不況に伴う進路への不安は、現在意欲的に研究を行っている院生にとっても不安材料でしょう。ポスドク1万人計画のあとの「ポスト・ポスドク問題」もあります。大学院が研究者の育成に特化していて良いかという問題もあるでしょう。そもそも、意欲の問題は陳腐な精神論や安易な文化論に堕しやすく、客観的には論じにくい問題です。尤も、避けて通ることができないことも確かで、その解決には科学社会学や科学技術社会論等の諸学問の手を借りる必要があるでしょうね。

 次に、学生側から見た、意識改革を実現する道として出来そうなことを、委員会から幾つか提案します。

 第1に、院生は社会における院生の地位についての自覚を持つべきでしょう。研究が社会の中で持つ意味や、公的資金を使って研究し、自らの腕を磨く意味は何か。それを理解するには、研究者に対する倫理教育や、科学技術社会論をカリキュラムに導入することも必要になるでしょう。とはいえ、院生自身が常日頃からこれらの問題に関して考える努力も必要でしょう。尤も、そのための学生側の努力を指導者側が抑えつけないことも重要で、その点で指導者層の皆さんにも意識改革は必要でしょうね。

 第2に、大学院生が「混ざる」システムの構築を提案します。研究への姿勢に厳しさが足りないのは、学生が均質化して研究に対する妥協の姿勢が出たからかも知れません。東海大学教授の黒川清さんが主張するように、大学のみならず国籍や性別の多様な研究者、学生が研究室に集うことで、いい意味での競争が生じる可能性が考えられます。とはいえ、研究への厳しさとは何かという点での同意はまだ得られていないとも考えられる以上、この競争を本当にいい意味でのものにするためにも、安易な文化論や精神論を排して議論を重ねるのは重要です。

 また第3に、若手研究者に限った問題ではありませんが、学生や研究者の意欲が報われるような研究システムを作ることが重要です。研究成果や論文のクレジットを公平にすること、雑用に追われることなく研究ができること、コネのない公平な人事システムを作ることが必須でしょう。公平な競争なしに、研究者の意欲を持続することは困難でしょう。

 2回にわたり、院生の経済支援と研究意欲の問題に関して、両者を分けて考えてきました。一連の問題について考えることそれ自体は非常に重要です。ただ、その論点の持ち方も重要であり、問題の本質を理解し対策を講じる上で、特異的な身近の例を中心に全体の姿を捉えてしまうことは危険ではないでしょうか。とはいえ、投稿にある様な特異的な例が存在するのも事実でしょう。一連の問題で双方向的な議論が始まったのはよいことだと考えます。今回の投稿を踏まえつつ、今後この問題について活発に当欄で議論していきたいと思います。更なる皆様からのご意見をお待ちしております。

 今回、都合により急遽予定を変更致しましたが、次回からは当欄 12 月号で予告した科学ジャーナリズム論の連載に戻ります。どうぞご期待下さい。

(生化若手 PNE キュベット委員会)



4月| 科学ジャーナリズム変革宣言(3) 日米科学記事対決

 昨年の連載前半 2 回(11 月号と 12 月号)までで,日本の科学ジャーナリズム がどのような点で社会的な期待に応えられていないのか述べてきた.今回と次回最終回では,具体的な事例をもとに,さらに課題を掘り下げてみたい.
 生化学若手の会科学ジャーナリズム分科会で注目の事例研究は,横山広美氏による『科学ジャーナリストをめざす醍醐味――ニュートリノ質量発見報道日米比較から』であった.横山氏は,大学院博士課程に在籍し,筑波の高エネルギー加速器研究機構でつくりだしたニュートリノを,岐阜県神岡鉱山跡にある巨大な水槽――50000 トンの水とのわずかな相互作用を光電子増倍管がとらえるスーパーカミオカンデ――に打ち込んで,ニュートリノの質量などを調べる実験に参加しながら,すでに科学ジャーナリストとして『子供の科学』誌などで執筆活動をおこなっている.
 さて,1998 年 6 月 5 日に岐阜県高山でおこなわれた国際学会「Neutrino’98」で,日本のスーパカミオカンデを活用した研究グループが,それまで物理学の標準理論において質量ゼロとされてきたニュートリノに質量があることを明らかとした.このニュースを,日本国内ではその日の夕刊 1 面で各紙(毎日,読売,東京を比較)が報じたほか,アメリカの The New York Times と Washington Post も 6 日大きくとりあげた(半日出遅れた朝日新聞は翌 6 日朝刊で報じた).大ニュースとなったこれらの記事の比較から何がいえるのか.
 日米の大きな違いは,まず記事の長さである.日本の記事が,本文 2000 字程度の短いものであるのに対し,アメリカの記事は,最初の面で終わらずに別の面に続いていて,ほぼ 2 倍の分量がある.ついで,実験結果の数値が入るなど,正確な科学的情報が盛り込まれているのは日本の記事の特徴だが,その代わりに研究の雰囲気を伝える国際会議の参加者数や研究グループの人数があるのがアメリカの記事の特徴だ.The New York Times には,1960 年に作家 John Updike が詠んだ,ニュートリノについての詩が引用されている.
 Neutorinos, they are very small.
 They have no charge and have no mass
 And do not interact at all.
 The earth is just a silly ball…
(以下略)
 少ない人数の記者が1回に長い記事を書くアメリカ型の新聞では,科学記者は物語の語り手となる力量を求められる.当然,会議で発表された内容以上の情報や知識が必要になる.Washington Post は,研究分担先のハワイ大学の研究者がやや先走って WEB サイトで発表した情報に依拠して記事をまとめたらしく,日本を中心とした国際チームではなくまるでハワイ大学の成果のようにも読める構成になってしまっている。
 では,正確で科学的な情報を伝える短い日本の記事と,研究のプロセスや背景を伝える物語風で長めのアメリカの記事.どちらのほうが,専門の科学者,専門外の科学者,そして一般市民に対して魅力的に科学を伝えているのだろう?
 これを横山氏は,次のような分析した.日本の記事は科学を「情報」としてとらえているようにみえ,真面目な記事構成であるものの,躍動感あふれる現場の雰囲気が届きにくく,おもしろくないので,いわゆる「科学離れ」を増幅するものになっているかもしれない.一方,アメリカの記事は,読み物としてつくられていて,おもしろく読める工夫がみてとれる.そのために,おもしろいことをやっていそうだから,もっとくわしく科学雑誌で読んでみようという気持ちを呼び起こし,科学好きを増幅する効果が強い.
 これだけの比較から科学記事はすべて日本が劣りアメリカが優れると結論することはもちろんできないのだが,日米の特徴がくっきり現われたこの事例から,“科学を育む”科学ジャーナリズムへの大きなヒントが得られることもまちがいない.

林 衛(UDI 科学の社会化研究室・同分科会オーガナイザー補佐)


5月| 科学ジャーナリズム変革宣言(4) ローカル科学番組の可能性

  横のモノを縦にするということばがある.記者クラブでの横書きのプレスリリース文書を縦書きの原稿に変えるだけ,あるいは,すでにある情報を右から左にわかりやすく伝えるだけの報道に終始する,日本ジャーナリズムを揶揄するときにも使われる.それに対し,科学ジャーナリズムには,たとえ専門家がいない分野であっても,隠れた重要な真実を自ら追い求めようとする科学的な姿勢が必須だ.そのような分野の一つである原子力防災に地域密着で取り組んだ実践が,井上智広氏(NHK ディレクター)によって報告された.生化学の研究者にとっては,専門以外の分野で科学ジャーナリズムがどう機能しているのか,実例を学ぶことになる.
 井上氏は,大学院で地震学を専攻したのちNHKに入り,多数の原子力発電所が並ぶ北陸の福井支局でディレクターとして番組制作を始めた.1995年兵庫県南部地震のあと,政府の防災基本計画にはじめて原子力災害編が登場した.「絶対安全」といわれていた原子力にも事故の可能性があり,その備えをすることが,原発を抱える自治体にとって明確な課題となってきた時期だった.
 ところが,原発から10km以内の自治体は原発防災の準備をする義務があるにもかかわらず,福井県内では避難訓練がおこなわれていなかった.会場で前半が投影されたローカル枠の30分のニュース番組では,県内の敦賀市当局は「根拠となる正しい被害想定がないので,避難訓練はできない.政府は想定をしてほしい」との立場にあること,一方,防災避難訓練を実施する新潟県柏崎市では,市当局が県庁に働きかけ,県庁が専門家を組織し,訓練のための被害想定を用意していることを明らかにした.
 しかし,新潟県に比べ,福井県内の取り組みが遅れていることをたんに批判することが目的ではないと,井上氏は付け加えた.科学ジャーナリズムといっても,ほとんどの場合,事件がおこった後に,なぜおこったのか,あのときああしていれば…という結果論におわっている.市民社会全体が,他人任せにせず,ことがおこる前の段階で,この先どうなるのかということを考えるようになることが重要だと,番組制作のねらいを語った.そのために,科学ジャーナリストは取材を重ね,科学論文や文献に目を通す日々を送る.
 バイオ分野でも,クローン技術,ES細胞を用いた発生・再生工学の研究が盛んである.結果論に終わらない科学ジャーナリズムの実践が求められている. なお,茨城県東海村で JCO 臨海事故が発生したあと,このローカルニュース番組の存在が東京のNHK制作担当者でも注目されたという.
 さて,連載 1 回から紹介してきた,予見性をもち,社会の中に新しい科学を育む科学ジャーナリズムとはどのようなものであるのか,この分科会の主題は読者に伝わったであろうか.ご意見,ご批判,ご感想もお待ちしたい.
 最後に,世界の動向についても簡単にふれておきたい.図をみてほしい.ピラミッドの頂点にある科学者から知識をもたない底辺の市民への一方向コミュニケーションの時代(ピラミッドモデル)が過去のものとなり,さまざまな社会組織が結びついて社会の中に必要な科学を育んでいくための多方向のコミュニケーションの時代(市民社会モデル)となったいま,科学ジャーナリズムの役割は拡大し,その重要性も高まっている.そのような編集方針のもと,『P.M.』とその翻訳版は,ヨーロッパ各国で愛読されているという.(了)

林 衛(科学編集者・NPO法人理科カリキュラムを考える会理事)


6月| 今年の夏も良き体験と議論を

●科学に還ろう
 科学者が探求する“真理”とはなんだろう.この疑問に対する意見を私の所属する研究室の教授がおっしゃっていました.それがなかなか印象的だったので次に紹介します.
 「“Where do we come from? What are we? Where are we going?”という問いに解答を与えるものが科学の目的であると思い,私は科学の道を目指した.しかしその答えは,しばしば不完全なものであり,“一時の真理”でしかない場合がある.そして,それがゆえに,われわれは(科学に興味のある者は)科学を目指すのでしょう.」ご自身の退官記念会のとき,ポール=ゴーギャンの描いた絵を液晶プロジェクターに映しながら仰っていました.
 この意見に私はとても共感しました.現在われわれが常識だと考えていることでも“一時の真理”でしかなく,生命にはまだまだ解らない事が沢山あります.その解らない事を少しでも明らかにできることに研究の醍醐味があるのだと私は考えています.

●研究者の立場
 真理を追うのが科学と言う人もいれば,人の利益になるのが科学と言う人もいます.どちらの意見も正しいと思います.ですが,社会が求める科学とは真理よりもむしろ利益のほうでしょう.そして現在の日本では科学技術に対して,かつてないほどの期待が寄せられています.研究者はその期待に対してどう対応していけばいいのでしょうか.とくに研究者として駆け出しの若手はどう反応していけばいいのでしょうか.
 また,自分の研究から本当に科学的な“真理”に迫れるのか不安に感じることはないでしょうか.現在,研究分野の細分化が進み,自分の研究の科学的位置づけがむずかしくなっています.広い視野をもてばわかるという意見がありますが,どこまで視野を広げれば科学的な“真理”に迫れるのでしょうか.
 ちょっと考えただけでも,研究者を取り巻く環境は複雑化していて,日本の研究者はこれまでにないほどむずかしい立場に立たされていると私は感じます.私はこれらの問題に対して1人であれこれ考えていましたが,明確な答えは結局得られませんでした.1人で考えつかないならば,人の意見を聞いて,自分の意見を相手にぶつけて解答を得るしかないと感じるようになりました.そのような問題提示,解決の“場”として「生化学若い研究者の会」はとても有意義な場所だと思います.

●“多様”な生化学若い研究者の会
 「研究室はさまざまな人間が集まって,“多様性”のある集団でなければならない.それがよい研究室の条件だ.」冒頭で紹介した私の研究室の教授がおっしゃっていた,もうひとつの言葉です.“多様性”という点は,生化学若い研究者の会に通じるものがあります.生化学若い研究者の会はさまざまな研究分野から人が集まり多様な集団になっています.その多様性の中で,個々の主義主張がぶつかり交わって自然と議論に花が咲きます.研究者にとって議論は一番の交流手段だと私は信じています.

●“多様”な集団の「夏の学校」
 そんな生化学若い研究者の会の一大イベント,「夏の学校」が今年も近づいてきました.皆さんも「夏の学校」に参加して,“多様性”の中の一員となり,議論という交流を深めてみませんか? 若手研究者のニーズが多様化してきているため,議論の対象はさまざまです.そしてプログラムそれぞれが基本的なことからコアな話にまで,突っ込んだ意見交換ができるように企画を立ててます.誌面の都合上,「夏の学校」の詳しい紹介はできませんが,今回の「夏の学校」に関するキーワードを次に紹介いたします.

 脳を理解する/バイオシミュレーション/バイオ政治学入門/
 1分子観察/ゲノムプロファイリング/分子機構からみる生活習慣病/
 金属と生物(酵素)/理系のキャリアパス/ヒトとは何か? ほか

 さて,皆さんの興味に訴えかける題材はあったでしょうか? もし,何かを感じたならば,生化学若い研究者の会ホームページ http://www.seikawakate.com を,ぜひご覧下さい.そして,機会がありましたら,「夏の学校」でお会いしましょう.

中川崇広(生化学若い研究者の会 夏の学校委員長)



7月| 国立大学法人化をこえて(問題提起編)

今号、次号の2回にわたり、国立大学の法人化問題について取り上げます。今回は問題提起をさせていただきます。

 国立大学が独立行政法人化されるという話が表に出てからはや数年。産学のスムーズな連携を求め、時代の要請に従って大学の研究が臨機応変になることを期待する、産業界の強い意向に後押しされた推進派と、産業に直接役立たない基礎研究の壊滅的な被害を警戒する反対派の論争が長らく続いてきた。最初は独立行政法人化に渋々だった文部科学省も、小泉内閣の登場とともに方向を急速に転換し、平成16年4月、いよいよ国立大学は国立大学法人になる。

 だが、国立大学の法人化が研究の世界にどのような影響を与えるのか、不透明な点も多い。2月に国会に提出された国立大学法案は、「国立大学法人は、中期目標に基づき、中期計画を作成し、文部科学大臣の認可を受けなければならない」と明記しており、これでは大学の自由が増し産学の連携を推進するどころか、文部科学省の大学への干渉が増すとの指摘が、かつての推進派からもあがっている。

 国立大学法人化の詳しい解説は他所に譲るとして、ここではこの法案を巡るいくつかの問題点を提起したい。まず指摘したいのは、文部科学省は国立大学法人化にあたって、大学教員の意見をほとんど取り入れていないという点である。多くの教員が反対する中、なぜ法人化しなければならないのか、その根拠は曖昧であり、明確な説明もない。そのいっぽう中期計画の作成は既に始まっていると聞く。教員の合意もなく、なし崩し的に導入が決まっていくその課程に、多いに疑問を感じる。

 こうした現状に危機感を覚え、法人化に反対している教員もいる。反対論を唱える者は、法人化されると任期付き教員になってしまい、身分が不安定化する、そのため、結果の出る研究ばかりに追われるようになり、また今まで享受してきた様々な権利(たとえば学問の自由であるとか、国家公務員育児休業法に基づく育児、介護休業の規定であるとか)がなくなってしまうと懸念を述べている。

 しかしながら、こうした反対論にも疑問を感じさせられる部分が多い。たとえば、若手研究者の多くが、既にポスドクや任期付き助手などの期間の定まった職に就いており、自由に研究することがままならない現状では、教員の権利を主張されても支持する気になれないのが正直なところである。

 国立大学法人化には確かに疑問も多い。しかし、反対論には自分の特権を守ろうという意識が強く、辟易する。文部科学省や法人化推進派も、そして反対派も、自らの立場を主張するばかりである。市民や学生、そしてマスコミもこの問題に無関心であり、議論はいっこうに盛り上がらない。

 今国立大学に関わる者がすべきことは、国立大学法人化への反対賛成を単に述べるだけではなく、国立大学の問題点を明らかにした上で、国立大学がどうあるべきか、市民や学生、若手研究者と議論していくことではないだろうか。

 たとえば大学院重点化により大学院生や研究者の数は大幅に増えたが、アカデミックポストは増加していない。このため、多くは研究と関係のない職種に就かざるを得なくなるだろう。このような若手研究者が直面している問題をきちんと総括することなくして、国立大学のあり方を語ることはできない。

 また、大学改革というと産学連携ばかり言われているが、社会が大学にどのような人材を生み出すことを期待しているのか、地域社会において大学はどうあるべきかなどについて、市民の目線で議論していく必要がある。

 そして、議論を国立大学だけにとどめておくことはできない。研究は私立大学でも研究所でも企業でも行われており、研究者は様々な研究機関を横断していく。自分は今国立大学に勤めていないから関係ない、とは言えないし、その逆もしかりである。科研費も含め、日本の研究システムがどうあるべきかという文脈の中に、国立大学法人化の問題はあるのである。こうした議論に基づき、国立大学をどうすべきか具体的な提案を示さなければ、大学は時の権力者の思うがままになり、市民からそっぽを向かれ、滅んでしまうだろう。

 読者の中には、今は自分の業績しか考えられない、国立大学の法人化や研究システムなど知ったことではない、と思う方も多いと思う。しかし、無関心を決めこむには問題が大きすぎる。日本には70万人の研究者がおり、研究開発に三兆円もの国家予算が投入されている。その一部をあなたが使っているのだ。

 今少しの時間を取って、社会への、次の世代への責任を果たしていくためにはどうすればよいか、大学とは、研究とはなにかを考えていただきたい。辛く報われない作業になるかもしれない。けれど、21世紀の大学はそこからはじまるのだ。

 次回は提言編です。

(生化若手 PNE キュベット委員会)



8月| 大学改革への提言~若手研究者の視点から

 先月号は国立大学法人化の問題を取り上げ、文部科学省における政策決定プロセスの不透明性と、自らの立場のみに立脚した反対運動その双方が、対話による問題解決というプロセスを軽視している点、及び客観的立場からその双方が見過ごしている点を考察した。行政と反対派は敵としての関係しか築けないのだろうか。是でも非でもない、対話することによってよりよい政策を作り出す第三の道はないのだろうか。

 今新たな方向性が生まれつつある。旧来の反対だけの運動を超えて、しっかりとした政策を提言することにより様々な問題を解決していこうとする、NPO(非営利組織)という方向性である。国立大学の法人化で言えば、法人化に反対と唱えるだけでなく、大学を変える具体策を作成し、それを世に問い支持を広げることによって、社会にとって有益な大学を作り出していくということになる。

 今回私は仲間とともに NPO「サイエンス・コミュニケーション」を立ち上げ、法人化を巡り賛否両論が飛び交う現状を大学の教育、研究環境を改善するよい機会と捉え、主に若手研究者の視点から大学のあり方に関する提言を作成した。私たちは法人化の有無を問わず提言の実現を目指し、「大学の」学問的自由ではなく「国民の」学問的自由を守りたいと考えている。以下が提言試案である。

提言 若手研究者を独立させるためのハコを作る
 若手研究者への資金は増加しているが、テーマから資金運用まで若手研究者が自由に使えるケースは少ない。そこで、行政改革特区などにオープンスペースを設け、若手の独立をバックアップすることを提案する。

提言 家庭の経済力に関わらず大学、大学院に進学できるシステムの実現
 本来は欧米のような給費制の拡充や、日本学生支援機構による奨学金制度の拡充が望ましいが、国の財政事情を考え、民間金融機関との連携による教育ローンの充実を提案する。現在慶應義塾大学が実践しているように、大学が金融機関と学生の間に立ち、低所得の学生には大学が保証人になるという制度が望ましい。この制度の上では、大学は学生に返済計画のサポートをしなければならないが、反面学生は大学の期待に応えなければならないという義務が生じる。この制度が正常に運営されることで、大学間の競争における教育サービスの向上も期待できる。

提言 指導教官複数制と学内相談機関の充実
 一人の指導教官が学生の学位、人事など様々な面について決定的な影響を与える現在のシステムには多くの問題がある。学生の評価については複数の人物が行うべきである。同時に大学は学内相談機関を充実させ、多様な専門スタッフを雇い、教育と研究を様々な角度からサポートする必要がある。

提言  研究者評価に際し、年齢ではなく研究歴を重視する
 総合科学技術会議は研究費の配分に年齢と同時に研究歴を重視する方針をうたっているが、教官の採用に際しても、研究歴を評価基準にすることを提案する。現行の年齢の基準では、子育てなどで一時的に研究を離れた者や、別の仕事を経て研究を志した者が著しく不利益を蒙り、才能ある研究者をピックアップできないからである。

 私たちは本稿脱稿後も議論を重ね、提言をより充実したものに練り上げていこうと考えている。具体的にはより広範な声を代弁するため、様々な方々のご意見やご批判に耳を傾け、同時に言いっぱなしで終わらせないために、提言の実現に向けた広報活動を行っていく。私たちの活動状況はhttp://researchml.org/SciCom/に掲載するので、アクセス頂きたい。ご意見をお待ちしている。

 総合科学技術会議の発足以来、現場の研究者の間には自らの意見が科学政策に反映されないという不満がたまっていると聞く。しかし、黙っていては何も変わらない。我々研究者は NPO による政策提言活動を行い質の高い提案を世に問うことにより、自らの研究環境向上を目指し、社会に貢献する研究のあり方を追求する必要がある。

 今年 5 月、NPO 法が改正され、「科学技術の振興を図る活動」が NPO 法人の活動分野として認められた。文部科学省も白書のなかで、科学政策決定における NPO の重要性を指摘している(平成 12 年度科学技術白書)。多彩な NPO および NPO 法人が科学政策提言を競い、行政がこれらの提言を科学政策に取り入れる、こんな時代の実現は、そう遠い先の話ではないかもしれない。この新しい流れに読者の皆さんが加わることを期待している。

榎木英介(キュベット委員会 / NPO サイエンス・コミュニケーション)



9月|  日本の科学の生きる道(1) 田中さん的研究者育成によるポスドク問題解決

最近行なわれた調査では、小学生男子が将来なりたい職業第一位に「科学者・博士」が躍り出た。しかし、はたして彼らが将来憧れの職業に就いたとき、科学者として幸せな未来を送れるだろうか?そして、現在彼らの憧れの的である読者の皆さんは、科学者としての幸せな未来を夢見ていられるだろうか?

 90 年代初頭に始まった大学院重点化計画により、大学院学生の数は 2 倍以上に増加し、平成 12 年度は 1.6 万人の博士号取得者が誕生した。90 年代後半に始まったポスドク1万人計画も既に達成されている。しかし、増え続けた院生とポスドクの受け皿となるポストは十分に用意されているわけではない。2001 年度版科学技術白書によると約4割の博士課程卒業者が職を得られないという異常事態が起こりつつある。

 現在の研究制度改革は、米国型の研究制度を形式的に日本に取り入れるという色彩が強い。たとえば、大学院重点化、ポスドク増加、競争的研究資金の拡大等の改革は米国の科学技術政策を範としている。米国型科学制度の特徴は「競争原理による研究の活性化」である。しかし、これが日本の研究者が望む姿なのか?

 日本人が望む研究者の理想像とは「田中さん」であろう。猪突猛進研究に邁進する「野依さん」や「利根川さん」、競争に勝ち抜き、大型プロジェクトを率いるスーパー管理職の「小柴さん」ではない。どんなに地味であっても、こつこつと研究を続けられ、研究の喜びを一生涯味わえるポストこそ、多くの研究者が望むものである。だからこそ、多くの研究者は田中さんに賛辞を送り、市民もまた謙虚な研究者の代表である田中さんを暖かく迎えるのである。一見地味ではあるが、心から研究を愛する「田中さん予備軍」が増えるよう、日本ならではの研究制度改革を進めてはどうだろう?

 現在の日本型研究システムでも、これから取り入れようとしているアメリカ型研究システムでも、研究者は歳を重ねるごとに管理職への階段を上る宿命を負っている。しかし、出世ではなく研究の喜びをできるだけ長く味わいたいという研究者も存在する。「生涯一研究者」という謙虚かつ幸せな生き方は、日本ならでこそ実現可能な研究者モデルである。アメリカの後追いをするだけではなく、日本独自の道を模索し、研究者の幸せと市民社会への利益還元を目指す研究制度があってもよい。その第一歩となるのが広く浅い若手研究者への雇用支援である。このためには一見大胆な改革が必要であるようだが、原理的には研究費配分の匙加減次第でかなり改善が望める。

 例えば、科学技術振興事業団の ERATO という競争資金がある。この代表者は年間 5 億円の資金を得るが、専用の研究スペースを新規に作らねばならない。この ERATO 専用のハコは 5 年の研究期間終了後、文字通りお払い箱となる。また、ハコ構築と撤去のため、1 年間程度は研究が実質不能となってしまう。一方同じ科技団の CREST は、大学等の既存の研究設備を有効活用できるため、年間 1-2 億円程度でも ERATO なみの研究支援効果がある。ERATO はポスドクの雇用創出に貢献していると言われているが、現状ではせいぜい年間 50 人の雇用創出にすぎない。CREST との差額を利用すれば ERATO 5件分で年間 500 人のポスドク人件費が得られる。

 あるいは、日本学術振興会のポスドクにはお土産的に年間 90 万円の研究費がついてくるが、実験系の場合、指導教官に没収されてしまうのが常識である。これを 3 人分プールすれば 1 人分の人件費が確保できる。これによって約 1500 人の雇用が創出できる。もしくは、平成 14 年度に 377 億円をかけた宇宙ステーション開発プログラムを凍結すると、毎年輩出される過剰ドクターを全員ポスドクとして雇用する人件費が得られる。もっと公平に全科学技術予算 3 兆円の1%を節約するという手もある。

 このように、研究費総額は増やさず、パイの配分を工夫するだけで、広い層への雇用支援が可能となる。しかし、そのような簡単な政策さえ実現できないのが今の日本の現状だ。現行の科学技術基本計画は平成 17 年度まで続き、それまでに劇的な政策変更が起こるとは考えがたい。

 それではこの絶望的状況の中、「田中さん予備軍」の若手研究者としていかに生き抜くべきか、現行の科学技術政策に即した対処療法、そして理想的研究環境の実現を目指した根本的改善策について、次号以降にお伝えする。

檀 一平太(NPOサイエンス・コミュニケーション理事/食品総合研究所重点領域)



10月| 日本の科学で生きる道(2) 対処療法によるポスドク問題解決

 日本独自の研究制度改革として、研究費配分の工夫による広く浅い雇用の創出という提案をおこなった。しかし、読者の中には「そんな理想論を掲げても、目の前に職がない」という切実な問題を抱えている方も多いだろう。ところが、前回展開したようなパイの配分は、求職者側の努力で実現できるのである。

 就職難とは言っても、博士号取得者が徒党を組んで抗議したりすることもないところをみると、なんらかの手段で就職難を乗り切っていると考えるのが妥当である。前回、約4割の博士課程卒業者が職を得られないという 2001 年度版科学技術白書の統計を紹介したが、これは、統計のマジックにすぎない。ハローワークが調査を担当すれば、極めて高い就職率が得られるはずである。失業保険の給付基準においては、フリーターは立派な就業者である。文科省認定「失業者」であっても、実際にはフリーターをするなりの工夫によって何とか生活を続けているというのが、より的確な現状認識だろう。

 たしかに、博士号取得者に安定的な職が転がっているわけではない。不況下における企業就職の道は極めて狭く、アカデミックポストを得ることは至難の業である。この苦境において、裏業を駆使してしばらく糊口を繋ぐ方法というのが今回のテーマである。結論を言ってしまえば、「マクロ科学政策を読む」ということにつきる。

 テレビや新聞を丹念にチェックしても、マクロ科学政策を見つけることは難しい。一般社会の関心が薄いためほとんど報道の対象にはならないからである。ところが、われわれ研究者はモロにマクロ科学政策の影響を受けている。

 現在、我が国のマクロ科学政策を担っているのは内閣府直属の「総合科学技術会議」である。この機関が「科学技術基本法」に基づいて、5年毎に「科学技術基本計画」を制定する。これがマクロ科学政策におけるバイブルである。これを読むと大まかな科学研究の動向がつかめる。言い換えれば、どこに資金が流れるかが読める。

 ただし、バイブルを読むだけでは、具体的にどこに研究資金が流れているかは見えない。でも、実際には、試薬代理店の凄腕営業者は、高額予算獲得者を嗅ぎつけて、売り込みに訪れている。彼らの情報源は口コミだけではない。優秀な営業者はいわゆる業界紙をマメにチェックしている。科学研究における資金の流れに関しては「科学新聞」がほぼ網羅しており、これを読めばどこの研究室に資金配分がなされているかが明瞭に分かるのである。ミクロ科学政策情報を入手する手段として、科学新聞は必須アイテムと言っても過言ではない。

 しかし、あまりにミクロな世界に入り込むと、「科学政策研究者」となってしまい、本業に差し支えが出てくる恐れもある。そこで有効なのが、ミディ科学政策チェックとして、関心のある分野の国立研究所を調べることである。現在、ほとんどの国研は独立行政法人となっている。各々の独法は個別法に基づいて、やはり「中期計画」にしたがって運営されている。この中期計画を読めば、どの分野に重点が置かれているかが分かる。言い換えれば、どの分野に資金が流れているかが読める。

 次に、その独法のホームページを訪れて、どこが潤っているか調べてみよう。いろいろな研究室をクリックしてみると、中には「非常勤職員」が多い研究室が見つかる。このような研究室では、すぐには無理かもしれないが、事前にコンタクトしておけば、非常勤職員として雇ってくれる可能性は高い。この場合、給料は各独法、研究室の財政事情によって著しく異なるが、運が良ければ学振以上のオファーが得られることもある。ここぞという研究室を見つけたら、丁重なお手紙を添えてCVを郵送して打診してみると道が開けるかもしれない。「え、CVって何?」という方は、あまりに優秀でそんなものが要らないか、あるいはちょっと重症かも。

 現行の科学技術基本計画は平成17年度まで続く。それまでに劇的な政策転換はありえず、「4割」の該当者は各人の工夫で冬を乗り切るしかないだろう。
 ところが、その後にはどうやら春の予感も感じられる動きが出始めている。次号では、マクロ政策の長期展望について、大胆予想を展開する。

 なお、「研究問題メーリングリスト」に加入すると、科学政策の動向を研究室に居ながらにしてチェックできるので便利である。

檀 一平太(NPOサイエンス・コミュニケーション理事)



11月| 日本の科学を生きる道(3) 自ら道を切り拓けるか?

「アメリカが風邪をひけば日本が咳をする」という諺に従えば、日本のマクロ科学技術政策は米国の政策に大きく影響されるはずである。事実、近年の大きな改革の目玉であった、「大学院重点化」「ポスドク1万人計画」「競争的資金拡充」等は、米国科学政策の輸入版といえるだろう。では、次に訪れる波は何か、大胆予測をしてみよう。

 アメリカの科学技術政策に強い影響力を持つNational Science Foundation (NSF)の評議会(NSB)は、その改革試案(NSB03-69)で政策転換の姿勢を表した。一言でいえば、「国際競争力を高めるために自国教育の質を向上させる」という方針だ。

 米国は過去半世紀、海外から優秀な人材を集め、自国の研究レベルを維持してきた。しかし、留学生の供給源となっていた中国やインドが、自国の産業育成のため海外でトレーニングを積んだ人材を呼び戻すという政策を採りはじめた。たとえば、中国は1979年の改革開放後、40万人の海外留学生中すでに14万人を呼び戻し、「海亀派」として優遇している。海亀派は年13%の増加率で着々と増え続けている。これらの人材が自国の国際競争力を高めることは、相対的には米国の国際競争力を低下させることである。その動きを助長するような従来の科学政策を米国が転換するのは当然の流れである。この政策はまだ試案ではあるが、新保守主義的な現政権の体制を考えれば、これが実現されるのは時間の問題であろう。これが米国の科学政策の短中期展望である。

 このNSB改革試案は、小中高大院ポスドクすべてのレベルでの科学技術教育強化、それを支える人材育成、そして教師を高級キャリアとして位置づけることを推奨政策として掲げている。理科教育の危機が叫ばれつつある昨今、このうねりはいずれ日本にも上陸するだろう。政策面では、総合科学技術会議が発表する文章にちらほらと「理科教育色」が増えはじめ、そして、平成18年度に始める次の科学技術基本計画に全面的に織り込まれるはずだ。

 ところが、政策に織り込まれるからといって、必ずしも理想的な形では実現に至らないというのが日本の施政の現実である。例えば、10月号の本棚を見て、初めて科学技術基本計画をお読みになった読者は驚いたことであろう。なんとそこには、「多様なキャリアパスの開拓」や「若手研究者の自立促進」といった華やかな政策が織り込まれているではないか。では、このような政策が実現しているかというと、やはり「?」である。さまざまなセクターの利害が絡んでいく中で、政策の理念は骨抜きになっていく。とはいえ、明文化した以上、官僚が答弁に困らない程度には政策は実現するものである。これまで政府は、「ポスドク1万人計画」後に「多様なキャリアパス」を実現するため、民間企業の博士号取得者雇用拡大を期待していたようであるが、残念ながら民間企業の反応は鈍い。このままさらなる理系離れが加速するとなっては、政府の面目も立たないであろう。したがって、比較的「官」のコントロールが利きやすい何らかのポスト・ポスドク雇用対策が打たれるはずだ。

 このようなマクロ政策の流れを考慮すると、「博士号取得者が小中高の教育へ進出」するという可能性が浮上してくる。当然既取得者である教員免許取得者からの反発はあるであろうが、この機会は今後確実に増えてくるだろう。「博士号または教員免許」という新たな教員資格の形態が誕生する可能性もある。

 もし、このような潮流を自らのキャリアパス構築に利用するという意思があるのであれば、何らかの行動を起こす必要がある。最も有効なのは、各学会にある「若手の会」を利用し、組織的に政策提言をする方法だろう。その枠を超え、学会としての政策提言に発展すれば、さらに効力は増すはずだ。あるいは、各種NPOを通した活動も有効である。

 研究の手を少し休め、大きな視野に立って科学技術政策を見渡せば、様々な政策の流れやそれに従うチャンスが見えてくるだろう。研究に専念するだけではなく、自らキャリアの開拓者として、日本の科学を生きる道もあるだろう。

檀 一平太(NPOサイエンス・コミュニケーション理事)



12月| 細胞たちの大運動会 ー なぜ動けるの?■

今月は、去る2003年8/8~10に開催された生化学若い研究者の会・夏の学校の企画「科学ライティング講座」での最優秀作品をご紹介します。研究に大切な技術の一つである科学ライティングの実践的トレーニングを通じて、若手受講者は研究を伝える楽しさを実感しました。その詳しい経緯に関しては、当サイト内夏の学校ページをご覧下さい。

 「わぁ、動いている」。撮影を始めて6時間後、ビデオを見て思わず、驚きと喜びが混じったような声をあげてしまった。たくさんの細胞が一定方向に動いている。この3ヶ月間、生きた細胞を顕微鏡下で撮影するために、いろいろな条件を試してきた。これでようやく、実験を始める準備ができた。というのも、正常に動く細胞と、ある蛋白質の働きを抑制した細胞の動きを比べようとしていたからである。

 あまり知られていないが、細胞、とくに動物細胞は、驚くほど形を変化させたり、運動したりする。人間など考えもつかない巧妙なしくみで。たとえば、私たちはプラスチックシャーレの中で数種類の細胞を培養しているが、それらは種類ごとに特徴的な形をして、シャーレにへばりついている。しかし、分裂しようとする細胞はへばりついていた「足場」を外し、丸い形に変化する。そして丸い細胞の真ん中にくびれができ、しだいにそのくびれが深くなりついには2つの細胞に分かれる。これだけではない。細菌などの異物が体の中に侵入すると、白血球が集まってきて細菌を飲み込んでしまう。このとき白血球は、細菌の出す物質に反応して、アメーバのように形を変えながら細菌に向かって移動する。その様子はあたかも細胞が意思をもって細菌に向かっていくようだ。細胞運動は他にも、受精後の胚発生や、胎児期に急速に進む神経ネットワークの形成に不可欠なことが知られている。

 これらの細胞の運動はどのようなメカニズムによるのだろうか。その意味とは?生命がもつ「巧妙なしくみ」をなるべくわかりやすい人間の言葉に翻訳する作業が研究だと、私は思っている。

 細胞が移動する際の「巧妙なしくみ」を考えてみよう。非常に重要な役割を果たしているのが、アクチン細胞骨格という、蛋白質からなる構造である。骨格、などというと、硬い骨のようなものを想像してしまうかもしれないが、そうではない。細胞は、アクチン分子がつながってできたアクチン繊維を、付け足したり、壊したり、束にまとめたりして、構造をダイナミックに再構成させる。細胞が形を変化させたり運動したりするには、細胞骨格を持続的に制御しなければならない。

 最近、細胞の移動を促す因子として、ケモカインという小さな蛋白質の働きが注目されるようになった。ケモカインは炎症部位やリンパ器官から血管内に分泌され、白血球やリンパ球をひき寄せる蛋白質群らしい。このケモカインによってひき起こされる細胞の運動をケモタキシスとよぶ。このとき、細胞内ではダイナミックなアクチン細胞骨格の構造変化が起きている。どのような蛋白質が、どのようなタイミングで、細胞内のどこで働くとケモタキシスが可能になるのか?アクチン細胞骨格はどう制御されているのか?私たちの疑問点はここである。

 私たちの研究室ではアクチン細胞骨格の構造変化をひき起こす蛋白質の一つ、コフィリンに目をつけ、解析を進めている。コフィリンはアクチン繊維を端から壊したり途中で切断したりする蛋白質である。冒頭で述べたように、正常な細胞ではケモカインに反応した動き(ケモタキシス)が観察されるが、コフィリンの働きを抑制すると、細胞の運動も抑制されることがわかった。つまり、コフィリンは細胞の運動に重要であるということがわかる。

 最近、ケモタキシスの基礎研究が人様のお役に立つかもしれないことがわかった。乳がんは、とくに肺や肝臓に転移しやすいが、その理由がケモカインにあるというのである。がんが転移するとき、がん細胞は血管やリンパ管の中をすでにぐるぐるめぐっている。体中どこにでも転移しそうなのに、乳がん細胞がとくに肺や肝臓に転移しやすいのは、乳がん細胞の表面にケモカインの受容体が多く存在しているかららしい。肝臓などの臓器はケモカインを多く分泌し、乳がん細胞を呼び寄せているという。

 がんが生じる可能性は、誰にでもある。発がん後、手術や抗がん剤の治療を受けていても、転移することもある。転移したがんにはきわめて無力なことが多いのが現在の西洋医学だ。しかし将来、がん細胞の運動性を抑制することで転移を抑えることができるようになれば、がんとともに生きる方法が確立できるかもしれない。いつかそんな火が来ると思いながら、顕微鏡をのぞく毎日である。
 

冨澤千夏(東北大学生命科学研究科M1)