キュベットheader

2008年

1月| 実験アルバイトのススメ

  研究機関の中には,実験の補助員として学生アルバイトを使っているところがあります.今回はその一例を紹介するため,大学研究室へ配属される前に実験補助員としてアルバイトをしていた経験をもつ,大学生2名にインタビューしました.

Q募集の情報はどうやってみつけましたか.また,なぜやってみようと思ったのですか.
学生A:アルバイトの募集は先輩からの紹介で知りました.将来,研究者になろうと考えていたので,研究室での実験の進め方を知りたいと思ったことが志望動機です.
学生B:自分は友人からの連絡で知りましたが,大学の学務室のアルバイト募集コーナーで知った人もいました.実験手法を早い時期に習得するよい機会だと思い応募しました.

Q仕事の内容はどのようなものでしたか.
学生B:2人とも同じ研究室で遺伝子クローニングの手伝いをしました.具体的には,器具の片付けや培地の作成のほか,PCR,DNAシークエンス,プラスミド抽出など,基本的な分子生物学実験が主でした.試料の管理方法や実験ノートのとり方も習得できたのは大きな収穫でした.
学生A:実験手法は,ほとんどマンツーマンで原理からていねいに教えてもらい,自分の技術として身につけることができました.ほかにも,実験を進めるうえでの時間の使い方や,作業の分担方法について学ぶことができ,よかったと思います.

Q学生実験と違うところはありましたか.
学生A:責任の重さです.アルバイトだから雑用が中心かと思っていましたが,学生実験ではひとりではやらせてもらえないような実験を任せられ,とても驚きました.
学生B:自分が任せられた作業を失敗すると,ほかの実験過程にも影響がでて研究室全体に迷惑がかかるので緊張しました.最終的に予定していた実験をおえたときの達成感には大きなものがありました.

Q実際に実験作業を行うもののほかにも,器具洗浄や実験動物の飼育などちょっとした手伝いや,フィールドワークでサンプルを集めるなど,実験アルバイトにもいろいろありますね.
学生B:実験アルバイトから学生が得られる経験は,与えられる仕事によって大きく変わります.自分の興味ある研究にかかわることが大事なのはもちろんですが,せっかくだから,将来,役に立ちそうな経験ができるアルバイトに応募してはどうでしょうか.個人的な考えとしては,本格的に実験作業を行えるほうが得られるものが大きいと思います.

Qそのときの体験は,現在,どのようにいきていますか.
学生A:生命科学に対する理解が深まりました.授業だけではイメージがわきにくかった生命現象も,手を動かしながら習うことで理解や知識を深めることができ,生命科学への興味がさらに増しました.その結果,配属される研究室での研究内容を理解しやすくなり,自分の研究テーマについて真剣に考えるきっかけをもつことができました.
学生B:研究者としての進路について考える手がかりを得られたことも大きいと思います.学部生は研究の現場に立ち入ることがほとんどないので,自分が研究にむいているかどうか,将来像を描くことはむずかしいのではないでしょうか.少しでも研究の現場に立ち入ることができれば,自分が実験をしていて楽しいと感じるか,研究の現場は自分の想像と一致するか,といった進路決定の手がかりを早くから得ることができると思います.

Q学部生に勧めますか.
学生A:研究職に興味があるならやってみる価値があります.大学の講義に実感がわき,研究現場の実態を知る良い機会になるでしょう.
学生B:将来の進路決定の重要な参考になるので,仕事の内容をよく調べたうえで経験してみることを勧めます.

 実験アルバイトは,授業からは得られない経験を積む機会でもあります.興味ある方は,ぜひチャレンジしてみましょう!
蛋白質 核酸 酵素 Vol.53 No.1(2008)


2月| 若いときにこそ異分野交流を:「夏の学校」の意義と効用

蛋白質 核酸 酵素  Vol.53 No.2 (2008) P.195

“転職は異分野の人との弱いつながりを通じてみつかる”ことを示唆する情報理論がある。”弱いつながりの強み(The strength of weak ties)”とよばれるこの理論は、1973年、米国の社会科学者Granovetter(現 米国Stanford大学 教授)により提唱された。彼は、ホワイトカラーの労働者を対象に、”現職を得た情報源”と”現職の満足度”を調べた。その結果、弱い人脈から得情報をもとに転職した人々のほうが、ほかのグループの人々と比べて現職への満足度が高かったのである。なぜだろうか。強い人脈からの情報は既知である場合が多いのに対して、弱い人脈からは自分も気づかなかった情報が入りやすいからだ、とされる。無数にある職のなか、まだ視野の狭かった若いころに得た天職である可能性はさほど高くないであろう。

これは研究においても同様だと考えられる。生命科学はきわめて広大な分野であり、進学先の大学院を選ぶ時点でその全貌を把握することは不可能である。最初に与えられたテーマを進めていくうち、ふと平塞感をおぼえることもめずらしくない。違う分野に挑戦しようとする意欲が芽生えることもあろう。もしくは、もっと根本的なレベルで、自分は研究者にむいているのかと疑問をもつこともあろう。社会を俯瞰してみると、研究者が労働人口にしめる割合は100人中1人程度とわかる。残り99人の職に自分の適職があっても不思議はない。そう考えたとき、自分にあった研究分野や職の情報が入ってくるのは、研究室内という”強いつながり”からではなく、研究室外との”弱いつながり”からである。とこの理論は示唆しているのである。

 筆者が”生化学若い研究者の会 生命科学夏の学校”に参加したのは、より多様な研究分野にふれられると考えたからだった。”夏の学校”とは、昼間は著名な講師によるワークショップなどを通じて生命科学のさまざまな分野を通じて生命科学のさまざまな分野を勉強し、夜は参加者が飲み会を通して交流することを目的とした2泊3日のイベントである。大学院生を中心として学部生からPIまでが集うので、”弱いつながり”をつくるには最適と判断した。筆者は現在、自分がかかわっている構造生理学という研究分野に満足はしているが、ほかの分野と組み合わせればさらに発展するかもしれないと考えたのだ。実際に”夏の学校”に参加してみると、参加者の多様性は筆者の想像をこえていた。発生生物学や神経生理学をはじめ、免疫学、園芸学、精神医学にいたるまで、実にさまざまな分野の人が集まっていたのである。彼らがめざす職業も多様で、研究者のみならず、新聞記者や経営コンサルタント、投資銀行のトレーダーにまで及んでいた。そして、筆者は期待以上に目的をはたせたのである。

 ”夏の学校”は参加者どうしが交流しやすいように設計されている。単に酒を与えるだけでは会話は弾まない。なにか共通の話題がほしい。そこで、夕食後には自分の研究内容を解説しあう時間が設けられている。意欲の高い参加者が集まっているので、各人が自分の研究のおもしろさを熱弁する。質問が飛び交い議論が盛り上がるので、つい規定時間がすぎてしまう。”つづきは飲みながら”という言葉が自然にでてくるというしかけだ。なかには、朝5時まで語り明かしていた人たちもいたという。講師として招聘された研究者も同席しているので、先人の研究哲学にふれることもできる。ある大学院生は、諸国を渡り歩いたという講師の話に感化され、ポスドクになったら必ず新しい分野に挑戦すると言っていた。

 研究者をめざす若手の人たちには、”夏の学校”のような交流会に積極的に参加することをおすすめしたい。若い視野を研究室の壁でさえぎるのはもったいない。”弱くつながる”場は、創造の場でもある。若いからこそ気軽に交流できるのであり、若いからこそ自由に発想できる。園芸を生化学的に精神医学へ応用する人がでてくるかもしれないし、投資銀行に行った人は実験のリスクを証券化するかもしれない。
そんな心躍る将来像を描かせてくれる場である。交流会で得た”弱いつながり”の一部は、いずれ強くなるだろう。そのときには、異分野が融合して新しい分野ができたのかもしれない。そしてそれは、天職を得た証といえよう。


田中裕喜(京都大学大学院理学研究科)
E-mail : hiroki-j.tanaka@nifty.com


3月| 大学院が無料化される?

 さきごろ,東京大学の大学院博士課程で新しい奨学金制度が準備されており,一部の学生の授業料が実質”無料”になるという報道(2007年9月29日付 日経新聞)があった.これは前例のない大規模な授業料免除である.東京大学では学部学生の授業料免除枠が拡大されるとの報道(2007年8月30日付 日経新聞)もされており,授業料減額についてさまざまな検討が行われているようだ.とはいえ,報道によれば,この新しい奨学金を受けるにはいくつかの条件(日本学術振興会の奨学金を受けていない,など)があり,無条件ですべての大学院生がその恩恵を受けることはできない.また,新しい奨学金制度についての報道が事実であるば,東京大学の英断を評価したい一方で,どうしていままでそれができなかったのか,遅きに失した感もいなめず,さらに,すべての大学院生を公平に援助せず,なぜ条件を設けるのかについても疑問符をつけたい.戦後,国立大学の授業料は増加の一途をたどってきたが,キュベット委員会ではたびたびこの問題をとりあげ,国と大学の姿勢を批判してきた.本稿では,主要大学の財務状況を概観し,全国の大学に授業料減額のより一層の拡大を促したいと思う.
 今回の報道によれば,10おクエンの経費削減によって1700人分の授業料を工面する,とある.しかし,NPOサイコムジャパンの調査(理工系&バイオ系 失敗しない大学院進学ガイド,pp.244,日本評論社,2006)によれば,東京大学の大学院生1人あたりの外部研究費(科学研究費補助金など)は543万円で,2位の大阪大学(303万円),3位の京都大学(296万円)を大きく引き離して全国トップに位置している.これだけ予算規模の大きい大学が,大学院生から毎年約50万円の授業料を徴収する必要があるのだろうか.もちろん,現状では外部研究費や運営交付金は柔軟には使用できず,また,授業料減額は大学経営にとって危険な冒険であるとの認識(佐々木 毅 東京大学総長(当時)談話,2004年1月25日,http://www.u-tokyo.ac.jp/gen03/b01_06_01_j.html)も理解できる.しかし,東京大学が優秀な学生を集めようと思うなら,多額の研究費を集めていながら,なぜ,いままで授業料を減額できるシステムをつくれなかったのか.わが国を代表する大学として政策の提言をするなど,政府の決定に”遺憾に思う”とコメントするだけで従うのではなく,もっと早く行動を起こせたはずである.世界一の大学を標榜するのであれば,今後も率先してわが国の大学改革を断行してほしい.
 大阪大学,京都大学といったほかの有力国立大学ではこのような動きはないのだろうか.携帯電話事業大手のDoCoMoとKDDIのように,業界のトップが切磋琢磨するからこそサービスは向上する.優秀な学生を集めて世界最高レベルの大学をめざすのであれば,静観できる問題ではないはずだ.また,私立大学にもチャンスはある.一部の私立大学では大学院生の授業料を学部生のものより減額する場合があるが,ブランド力があって学部生が多い大学であれば,学部生の授業料を若干上げることで大学院生の授業料を無料化することも無理ではない.たとえば,早稲田大学なら,学部生の授業料を2割程度アップすれば大学院生の授業料を無料化できる(早稲田大学の学生数は,学部生45,757人,大学院生8,471人(専門職課程を含む)なので,学部生と大学生と大学院生の授業を同額と仮定するなら,学部生の授業料を約120%とすれば総額で大学院生分の授業料をカバーできる.数字でみる早稲田,http://www.waseda.jp/jp/global/guide/databook/index.htmlより),米国では,学部には富裕層の子弟を集め,大学院では優秀な頭脳を集める,という経営戦略はめずらしくない.
 このように,研究費の潤沢な大学院ならば大学院生の授業料無料化は決して不可能ではないと思われる.また,私立大学にも検討する余地はあるはずだ.大学院生の授業料無料化は優秀な学生を呼び込む”目玉商品”となるだろう.一方で,大学格差がさらに顕在化することも予想され,学生へのサービスを真剣に議論する時代がきたといえる.つぎはどの大学から続報がでるだろうか.
 付記:本稿執筆後,東京工業大学から博士後期課程への経済支援が正式に発表された.(http://www.titech.ac.jp/news/j/news071221-j.html).

片木りゅうじ(キュベット委員会)
蛋白質 核酸 酵素 Vol.53 No.3(2008)


4月| ポスドク問題の困難さを考える

 博士号を得たのち大学などの研究機関に雇用されて研究を続ける者は通称”ポスドク”とよばれているが,文部科学省ではポスドクをつぎのように定義している.①大学などで研究業務に従事している者であって,教授・助教などの職にない者,②公的研究機関において研究業務に従事している者のうち,任期つき雇用であり,研究グループのリーダーなどでない者(http://www.nistep.go.jp/actiev/ftx/jpn/mat137j/pdt/mat137j1.pdfより一部要約).ここでは助教は除かれているが,いわゆる時限つきや”特任”と肩書きがつく助教ポストは増加しており,博士号取得後の就職不安が拡大しているといえる.しかし,こうした問題が”ポスドク問題”と称され各方面で認識されるようになったのは,ここ最近のことだ.

 使用者側からみれば,使い勝手のよい労働力として大学院生やポスドクは右肩あがりに増えていき,研究現場での生産性もあがった.ポスドクたちは,いつかはパーマネントのポジションで!という期待を抱きつつ,そして,教員たちの誘いに勇気づけられて,時限つきの不安定な身分に押し込められてきた.しかし,この問題は大学院重点化やポスドク1万人計画が実行されるまえから,すでに認識されていたのではないだろうか.もちろん,学生を指導する教員たちも気づいていただろう.
 これについての論点は2つある.ひとつは,ポスドク問題はポスドク個人の問題なのだから,ポスドク自身の意識改革とそれに根ざした個人レベルのキャリア開拓が重要だというもの.もうひとつは,ポスドク問題は社会・制度の問題なのだから,社会・制度レベルの改革が重要だというもの.どちらも重要な論点であり,一方のみを語るだけでこの議論が閉じるわけではない.そして,個人のレベルにせよ,その解決は困難である.個人の問題と社会・制度の問題の接点から両者の関係を論じる必要があるのではないだろうか.

 筆者はこのような危機感を抱き,昨年11月に掲載された”サイエンスアゴラ2007″において,ワークショップ「本音で語るポスドク問題」を企画・運営した.パネリストには三浦有紀子氏(当時 科学技術政策研究所),中島達雄氏(読売新聞東京本社)を招いた.講演ではポスドク問題を科学技術政策の歴史として概観し,さらに,世論としてどのように扱える問題なのかも分析した.参加者も自由に語りあえる場になるよう配慮したつもりだったが,残念ながら会場での若手の発現はおしなべて低調だった.
 このワークショップの成果と反省点は,今後,突き詰めていく予定であるが,ここに企画者としての私見・提言を述べてみたい.
●生命科学系では,研究職志望者に対して社会全体が用意できる人材受け入れの幅が小さい.しかし,高校生にはバイオサイエンスの人気は高く,私立大学ではバイオ学科の新設があいついでいる.この事実を高校生にも広く伝えるべきである.
●大学院の教育においては,専門性を深めることとともに,社会的な活動に参加できる機会を広げることや,専門性を発揮するためのコミュニケーション能力の錬成を重視すべきである.また,それができる環境に身をおけるような制度が必要だ.
●企業側にとって,高度な専門性をもつ人材を探し出すことの意義は高い.しかし,実際には博士号取得者は就職戦線で埋もれてしまっている.そのため,企業と博士号取得者がマッチングできるような組織を整備する必要がある.
●公共事業が失敗すれば行政は批判される.大学院重点化も莫大な税金を投入したという意味では公共事業のひとつである.行政は国民に事態を説明し,貴重な人材が無駄にならないようポスドクを社会に活かしていく責務を負っている.

 以上,これらの提言は暫定的なものでしかなく,解決策は,暗中模索の状態である.ポスドク問題に問題意識をもつ人は多くいるが,現状では有力な解決策はない.この問題をこれからも追いかけていきたい.

横山雅俊(NPO法人サイコムジャパン)
蛋白質 核酸 酵素 Vol.53 No.5(2008)


5月| 博士課程への経済援助だけで終わるな!

 東京工業大学、室蘭工業大学、東京農工大学、そして、東京大学。これらの大学の共通項がわかるだろうか。この4つの大学は、最近、博士課程の学生に対して、過去に類のない大規模な経済的支援を発表したのである。博士課程への入学者数の低下(学校基本調査報告書より)という背景のもと、優秀な学生を確保する手段として、同様の動きはこれからも全国の大学に急速に広まる可能性がある。
 筆者はこれから博士課程に進学する予定であり、このような経済的支援は率直な感想としてありがたい。同級生がつぎつぎと社会に出ていくなか、親に学費を払ってもらうという負い目が軽減されるからだ。しかし、大学院教育を取り巻く問題は依然として山積みであるという事実と、それをふまえた今回の支援のあるべき位置づけについて、考えるべきではないだろうか。
 大学院教育の問題点として、博士号取得者の就職問題がある。国の政策である大学院重点化とポスドク1万人計画によって増加した博士号取得者のうち、大学教員になれる者は限られる。大多数は民間企業に道を求めるが、企業の多くは博士号取得者の採用に消極的だ。その結果、定職に就けないまま年齢を重ねる博士号取得者が増加しつづけている。この問題に対処するため大学は、博士課程で養われる能力と企業が求める能力とを乖離させないための取り組みと、就職支援をするべきだと考える。
 博士課程においてなにが問題点なのだろうか。日本経団連がまとめた報告書にはつぎのような記述がある。”…わが国の博士課程は、「優秀な人材が博士課程に進学しない」→「博士人材の能力、付加価値が不明確であり、ばらつきがある」→「企業が博士人材の採用に消極的」という一種の”悪循環”に陥ってしまっている…”[大学院博士課程の現状と課題より]。
 この要因として、同報告書は、(1)学生をめぐる問題、(2)大学院教育をめぐる問題、(3)企業の採用をめぐる問題、(4)経済的支援の不足、をあげている。今回の経済的支援は(4)に対応するが、(1)~(3)の問題についてはいまだ手つかずといえる。結局のところ、これらの問題は、企業が求める人物像や業務内容とのミスマッチ(専門性は高いが、ほかの分野の知識やコミュニケーション能力が不足しているなど)ということであり、今後は、経済的支援以外にも、学術研究だけでなく企業活動にも通用する能力を高める体系的な教育が求められるだろう。たとえば、他分野の研究者と研究交流をうながして高度なコミュニケーション力を養う、あるいは、新規の研究計画を提出することを義務付けて課題設定能力を養う、といった教育が考えられる。また、修士課程の学生に対する就職支援と同等の場を博士課程の学生にも特化したかたちであたえ、企業と学生の双方の意識改革も必要であると考えられる。
 もし、大学が経済援助をしただけで取り組みをおえてしまえば、博士課程への進学希望者の減少、という問題の枝葉だけをみた対処療法にしかならない。学生に配慮したつもりが、実際は就職先のない博士号取得者を増やしただけという結果になりかねない。今回の経済的支援は、博士課程における教育の充実と就職支援の取り組みをくわえてはじめて意味があるといえる。もちろん、経済絵的支援を受ける側の学生も喜んでいる場合ではない。将来、活躍できる場が大学であろうと企業であろうと、どこでも通用する能力を戦略的に身につけるつもりで博士課程に進学するべきである。

小林晃大(キュベット委員会)


6月| 国立大学の大学院博士課程への経済援助開始

 最近、博士課程に在籍する大学院生への大規模な経済的支援が国立大学4校においてあいついで発表された(2008年5月号 本欄 参照)。今後、ほかの国立大学においても大規模な経済的支援が行われれば、私立大学の大学院博士課程への進学希望者が減少する可能性が考えられる。私立大学は、大学院生への経済的支援についてどのようにとらえているのだろうか。麻布大学の政岡俊夫学長に話を聞いた。

Q 麻布大学では、博士課程の大学院生に対して経済的支援を行っていますか。
A 1998年度から、博士課程の大学院生を教員の研究を補助するリサーチアシスタントとして雇用し、年間60万円を支給しています。2008年度は3000万円の予算を確保しており、全員をリサーチアシスタントとして雇用することが可能です(2007年度は、大学院博士課程には34名が在籍)。

Q 大学が博士課程の大学院生へ経済的援助を行った際、大学側のメリットとしてどのようなことがあげられますか。
A 優秀な大学院生を確保することが期待できます。経済的支援のみで確保できるとは考えていませんが、本大学院の博士課程へ進学を希望している人が、経済的な要因によりほかの大学院へ進学することを避けることはできると思います。

Q 国立大学が大規模な経済的支援を行うことにより、麻布大学の大学院博士課程へ進学を希望する人が流出する可能性はありますか。
A 学費が安いからといって本大学院への進学を希望する人がほかの大学院に進路を変更するとは考えにくいのですが、本大学院の特色のある分野の確立が必要になるでしょう。

Q ほかの大学と比較して、麻布大学が大学院博士課程の院生を得るために有利な点はありますか。
A 本大学院では、リサーチアシスタント制度以外にも、博士課程の大学院生1人あたりの研究予算として85万円が与えられ、さらに、学会出張の際の旅費も支給されます。しかし、このような経済的支援を公表したのは一昨年からです。本大学院がそうであったように、ほかの大学院でも経済的支援が行われているにもかかわらず発表していない場合があり、これに関して比較するのはむずかしいのが現状です。

Q 現在、いわゆるポスドク問題が報じられていますが、麻布大学は大学院博士課程の院生に対してどのような教育や就職のサポートを行っていますか。
A 大学や他の研究機関に勤務して研究を行うには、いずれの場合も定員があるため、希望するすべての大学院生が研究機関で職を得られるとは限りません。このため、本大学院では、大学に無料で在籍できる共同研究員というポジションを設けています。また、民間企業では幅広い知識と思考の柔軟性が求められています。このため、毎月、外部から講師を招いて講演会を開催しています。大学院生の教育は指導教員の能力によるところが大きいので、大学院生には研究室に閉じこもらず、自ら学会や研究会などに参加することを期待しています。

 すでに、麻布大学においては博士課程の大学院生に対する大規模な経済的支援が行われており、3年間の学費の総額は、一般的な国立大学のおよそ半分であった。しかし、学外の進学希望者がこういった制度を知る機会はほとんどないであろう。一般に、私立大学は国立大学よりも学費が高いと思われがちである。経済的要因で進学を思い悩む人は、まず国立大学を志望するだろう。この常識を覆すには、私立大学は経済的支援の存在をもっとアピールするべきではないだろうか。

犬飼直人(キュベット委員会)


7月| ポスドクから民間企業への転職の例

 世界中で多くの大学院生が,大学教授をひとつの頂点とする研究者をめざして研究に励んでいる.しかし,博士号取得後にポスドクや助教になったとしても,数年間は不安定な任期制雇用がつづき,さらに,そのなかですぐれた業績をあげて教授にまでなれる者はわずかしかいない.
 では,ポスドクというプロの研究者になったのち研究がうまくいかなかったとき,アカデミック以外の職種(民間企業・公務員など)へ転職することはできるのだろうか?ポスドクを数年つづけると年齢はすでに30代になっており,”研究に失敗した人”というネガティブなイメージがついているのではないか.そんな人を社会はどう受け入れるのか.今回は,神経科学分野のポスドクから教育関係の企業へ転職したAさん(年齢は,30代半ば)に,アカデミックから民間企業へ就職するにいたった経緯を聞いた.

Qなぜ,博士課程へ進学したのですか?
A学部生のときは就職活動が面倒だったからです.就職活動セミナーには1回も行っていません.修士課程の配属先もあみだくじで決めました.その結果,修士課程では石油化学を専攻しましたが,脳に興味をもったので,博士課程では神経科学をテーマとしている研究室に進学しました.修士課程でも博士課程でも,研究職以外への就職活動はしませんでした.

Qなぜ,民間企業へ就職することになったのですか?
A博士号取得後,そのまま研究室のポスドクとなりました.しかし,研究でよい結果を出せず,自分の興味あることにも取り組めませんでした.そこで,”脳研究は自分以外の誰かがやればいい,それよりも研究で得た脳科学の知識を社会に還元したい”と思うようになり,教育関係の企業へ就職しようと決めました.

Q現在の企業に就職するにいたった経緯を教えてください
A大学が主催する経済関係のセミナーに参加しました.そのセミナーの講師に現在の企業を紹介していただき,面接を経て採用となりました.就職活動をしていた期間は,3ヶ月ほどです.採用の決定打は,やはり”コネ”でした.就職活動にとって,人脈は非常に重要です.企業に幅広い人脈をもつ人から信頼を得て,その人に紹介してもらうのが確実だと思います.

Q民間企業への就職を考えているポスドクにアドバイスをお願いします
Aポスドクが民間企業へ就職するというのは,”研究に失敗して仕方なく企業へ”というネガティブなイメージがあると思いますが,”活躍できる場所を変えるだけ”と,考えを変えてみてはどうでしょうか.研究が駄目だからといって,すべてが駄目というわけではありません.どんどん人脈をつくり,就職先を紹介してもらいましょう.大切なのは,”自分は○○の研究をしてきた”というような,研究に固執したプライドは捨てることです.企業では,たとえ社員がひとり抜けたとしても仕事はまわります.代わりはいくらでもいるのです.自分の立ち位置を変えられ,柔軟に動ける人が求められています.また,企業によってその風土はかなり異なります.自分に合うかどうか,よく確かめたほうがいいでしょう.

Q博士課程の大学院生へのアドバイスもお願いします
A目先の業績を出すこと(研究テーマ)に一生懸命になってください.失敗したときのことを考えてしまうとスケールの小さい研究になり,結局は失敗してしまうと思います.また,知りたいこと(研究したいこと)がある人だけ大学院に進学するべきです.研究で失敗したなら,そのとき考えればいいと思います.失敗することを考えて大学院に進学するべきではない.それなら就職したほうがいいでしょう.

Aさんは,典型的な”なんとなく進学してしまった”学生だった.博士号取得後も研究は波にのれのかった.しかし,人脈を使って転職をはたし,安定した収入源を得たという意味においては,キャリア構築がうまくいったという例といえるだろう.求人の少ないポスドクにとって,やはり,鍵は人脈である.転職を考えたら,まずは人脈をつくろう.ポスドクは学会だけでなく,日ごろからキャリア関係のセミナーにも参加するべきだ.

木村栄輝(キュベット委員会)


8月| いまどきの若手研究者のネットワークづくり 夏の学校のコミュニケーション

蛋白質 核酸 酵素 Vol.53 No.10 (2008) P.1313

研究に参加したての大学院生が研究の進め方や進路を考えるうえで、指導教員や先輩との交流はもちろん、それ以外に、同世代の大学院生との交流も大切だ。研究室の外でのネットワークづくりのきっかけとして、”夏の学校”という若手研究者の合宿がある。生化学若い研究者の会が主催する”生命科学夏の学校”をはじめ、現在は40種類以上が知られている。これらは大学院生により運営され、研究者を招いた講義や大学院生の研究発表などをつうじて分野や所属をこえた交流を深めている。参加経験のある読書も多いだろう。
 近年、筆者は、”生命科学夏の学校”(以下生命科学)と”物性若手の夏の学校”(以下、物性)に運営スタッフとして携わってきた。今回は、2007年11月に開催された「サイエンスアゴラ2007」での活動報告をもとに、2つの夏の学校を比較しつつ紹介したい。

 生命科学と物性の開催場所・日程は対照的だ。生命科学は都市部のセミナーハウスなどに2泊、物性は地方の温泉ホテルなどに4泊の日程で開催される。生命科学は交通費と移動時間の面でメリットのある大都市近郊で開催し、公共施設の利用や日程の短縮など、参加者の負担削減に苦心している。短い日程は、動物や試料の管理のため長時間は研究室を空けられないというバイオ系に特有の事情もあるようだ。一方、物性はあえて交通費のかかる遠隔地で開催し、外界から隔離された環境での密な交流を図っている。温泉地での開催は招聘講師にも好評で、温泉は開催地選定の重要な条件となった。
 ともに参加者の大部分は大学院生だが、その学年分布は異なる。生命科学では半数近くいる博士課程の大学院生が、物性では2割にも満たない。ただし、博士課程の参加者の多くがリピーターである点は共通だ。学部生の参加が多いのも生命科学の特徴で、参加経験のある研究室の先輩などからの口コミが重要な役割を果たしている。男性と女性の比率は分野の状況を反映してか、生命科学で2:1、物性で9:1であった。
 時間割には共通点が多い。招聘講師による講義のほか、ポスターセッションや小グループでの議論など、参加者どうしが情報交換する企画がみられる。これらは、夏の学校の基本要素として50年ほどの長い歴史のなかで洗練されてきた。誰を招聘してどのような企画を行うかなど、具体的な運営のすべてを各年度で独立して行う点も共通している。大学院生どうしのネットワークをつなぐ場を大学院生自身がつくり上げようとする目的意識が両方で共有されている。
 夏の学校の問題点に、人的・金銭的な資金面での持続性がある。1年ごとに運営スタッフが更新されるためノウハウの蓄積や継承が難しい。何名かが翌年もスタッフとして残ったり、議事録や出版物をきちんとアーカイブしたりする必要がある。また、異なった夏の学校の運営スタッフが交流しノウハウを共有できるしくみがあれば重宝しそうだ。実際、生命科学と物性では比較を通じて互いに学ぶところが多かった。金銭面では、獲得可能な資金に限りがあることはもちろん、年度ごとの獲得状況の変化が開催地選定や参加者への旅費補助を不安定にしている。研究機関からの補助金、賛助企業からの協賛金などの資金ごとの特性にあわせた使用が、安定性の確保にある程度は有効のようだ。

 夏の学校は、われわれの体の細胞が日々更新されるように、年度ごとに刷新をくり返しながらきわどいバランスで続いてきた。この大学院生自身が企画・運営・参加する稀有なイベントが今後も続くためには、なにが必要だろうか?夏の学校での出会いからはじまった共同研究が実を結び、論文の謝辞に夏の学校の名が記されることを期待しながら、これからの進展に注目したい。

嶋田義皓 (日本科学未来館)
E-maol : pne-cuvette@seikawakate.org


9月|  奨学金の“優れた業績による返還免除”制度の問題点

日本育英会に代わって日本学生支援機構が誕生してから第一種奨学金の返還免除制度が変わり,”特に優れた業績による返還免除制度”がはじまった.これは,大学が日本学生支援機構に学科や専攻単位ごとに学生を業績で順位付けた資料を提出し,日本学生支援機構がそれをもとに上位の約30%を奨学金返還免除の対象(そのうち,全額免除を1/3)に選ぶ,という制度である.
 日本学生支援機構のホームページ(http://www.jasso.go.jp/)によると,この制度の対象は”大学院第一種奨学金採用者で,当該年度中に貸与終了する者”とあり,申請年度が限定されている.実際に日本学生支援機構に電話で確認してみたが,貸与が終了した年度以外は申請することはできないそうだ.このような申請年度の限定により,博士課程の在学期間が標準年限をこえてしまい奨学金の貸与が在学中に終了する学生や,日本学術振興会特別研究員DC2への採用にともない博士課程の在学期間中に奨学金を辞退する学生(http://jsps.go.jp/j-pd/pd_boshu_f.htm)が奨学金の返還免除を望む場合,学位論文の作成・提出にいたる前の段階で申請することになる.
 ところで,博士号の取得はアカデミックの世界において一人前とみなされるため必須である.それゆえ,学位授与機構である大学においては,学位を取得した学生は学位を得ていない学生よりも優秀であることが自明とされる.したがって,標準年限を超過した学生やDC2は,学位論文の作成・提出にいたっていないとの理由から,どんなに秀でた業績をあげていても”優秀”であるとはみなされないだろう.つまり,”特に優れた業績による返還免除制度”の対象が貸与終了年度に限定されていることは,”標準年限で学位を取得し,DC2にならなかった学生”だけをその対象としていることに等しい.このような学生は,最終的にどんなにすばらしい学位論文を仕上げようとも,奨学金返還免除が考慮されることはないのである.これで,”業績の優秀”が公平に選別されているといえるのだろうか.
 しかし,この不公平さは,申請資格を貸与終了年度ではなく在学終了年度に変更することで解決できるのではないだろうか.このように変更すれば,上記のような場合でも標準年限で学位を取得する学生とともに業績が公平に評価されるだろう.ただし,この場合,業績評価をあげるためにあえて留年を選択するという学生がでてくるかもしれない.実際,生命科学系の研究では,時間をかけてデータを集めたほうがワンランク上のジャーナルへの掲載を狙えるという場合もある.このようなことを防ぐためにも,大学は,どのジャーナルに論文が掲載されたかということだけで業績を判断せず,学生が研究にどのように取り組んできたのかをしっかりと見定め,学生の評価に不公平が生じないよう取り組む必要があるだろう.
 一方で,DC2採用にともなう奨学金の辞退に関しては,DC2には金銭的なサポートがあるのにどうして同じ土俵に上げる必要があるのか,という批判があるかもしれない.しかし,この制度は”業績の優秀”という基準で奨学金返還免除者を決めている.DC2として意外にもCOEリサーチアシスタントなど収入を得る機会はあるのだから,収入の大小ではなく,業績の優秀さを公平に評価するべきではないだろうか.DC2の内定がでても,これを辞退してもう1年がんばれば奨学金が返還免除になるかもしれない,などと迷わなくてはいけない現状は,健全とは言いがたいように思われる.
 奨学金貸与終了者は返還をはじめなければならないが,在学中は返還期限が猶予されている.現状の手続きのままでも日本学生支援機構は奨学金貸与終了者の在学状況を把握しており,よって,返還免除申請の対象年度を変更しても事務手続き上の負担はほとんどかわらないはずである.日本学生支援機構には,以上をぜひとも検討願いたい.

藤原慶(東京大学大学院新領域創成科学研究科)
蛋白質 核酸 酵素 Vol.53 No.11(2008)


10月| 生化学若い研究者の会50周年記念連載 第1回50年のあゆみ

1958年7月、札幌での日本生化学会大会において、自由集会”若い研究者の問題”が開かれ、62名の若手研究者によって、研究の困難な状況や苦しい立場について活発な議論がなされた。”生化学若い研究者の会”(生化若手の会)は、それらを解決するための全国的な強い組織として生まれたのである(生化学, 411, 30, 1958)。そして、その結成から50年が経過した2008年12月、第31回日本分子生物学会年会・第81回日本生化学会大会 合同大会 (BMB2008) において、”生化学若い研究者の会50周年記念事業”が行われる。本欄では、3回にわたって、生化若手の会の歴史を振り返ってみたいと思う。

1988年に倉元らが編纂した資料(Biochemistry Today and Tomorrow, Vol.6 臨時増刊)によれば、生化若手の会は当初から若手をとりまくさまざまな問題に取り組んできた。そのなかで、1962年には”若手4原則”を掲げている。これは、①予算の拡大と民主的配分、②研究者の平等の権利――研究者間、研究者‐研究協力者間の民主的関係、③ポストの拡大・公開・保障、④中央、地方の研究機関間の格差解消、の4項目からなり、当時、猛威を振るっていたオーバードクター問題(学位取得後の研究ポストがない)や、大学間格差の問題が、若手を大いに悩ませていたことを示している。
生化若手の会の発足は、生化学が爆発的な発展をとげていた時代と重なっている。1960年代は、DNA二重らせん構造、DNA合成酵素、カルビン回路など、生化学の古典的な成果がたてつづけに報告された、まさに激動の時代であった。きっと、当時の若手は日々発表される成果について、日夜、活発な討論をしていたのであろう。研究対象が細分化されてしまったいまと比べると、うらやましい状況である。また、1966年には、「蛋白質 核酸 酵素」誌上にてこのCuvette欄の連載がはじまった。当時は大学紛争の時代だったこともあり、若手の待遇改善問題に関する企画が集中していた。これは、生化若手の会の夏の学校でも毎年企画されていたようである。
1970年代からは、女性の研究現場への進出増加にともない、婦人研究者問題を扱う企画が増えている。研究現場において女性が被るさまざまな制約は、当時から大きな問題であったはずだ。近年では”男女共同参画”として(子育てをする男性を含めて)、女性研究者の問題が学会などでも積極的に議論されるようになってきたが、残念ながら、現在でもたとえば、大学教授における女性の割合はわずかでしかない。この問題の解決までの道のりがいかに長く困難であるかを思わせる。
1980年代には、若手をとりまく環境に変化が生じてきた。毎年のように取り上げられてきたオーバードクター問題の企画が、1986年を最後にピタリと止んだのである。当時のバブル景気や、1990年ごろからはじまる”団塊ジュニア”大学進学をまえにした大学の増設・新設によって、教員ポストが一気に増え、オーバードクター問題は氷解したのである。一方で、この時代に大きく発展した遺伝子組換え法は、分子生物学に革命的な発展をもたらした。また、1987年には利根川 進博士が日本人ではじめてノーベル医学生理学賞を受賞したこともあり、社会は生命科学にきわめて楽観的な期待を抱くようになった。
1990年代に入ると、研究室にさまざまなキットやロボットが導入され、大型予算による任期雇用の増大、公的研究機関や大学院定員の大規模な拡大もあり、研究現場はいままでになく活況になった。しかしその一方で、この変化は新たな影を落とすこととなる。一時的な任期雇用は増えたが正規雇用はほとんど増えないという”ポスドク問題”がうまれたのである。生化若手の会では1998年ごろからこの問題に取り組んでいるが、大学院生・研究者の就職問題はかつてないほど深刻に議論されている。

最近、生化若手の会は、全国の多様な生命科学分野の若手が集まる組織として再び活性化しており、交流を深める場として夏の学校を開催している。2008年は150人が参加し、毎年、参加者は増加傾向である。しかし、”若手4原則”はまだ達成されたわけではない。生化若手の会はこれからも若手どうしの全国的なネットワークとして、その時代が抱えるさまざまな問題と向き合いながら生命科学の発展に寄与していかなければならない。

片木りゅうじ(キュベット委員会)


11月| 生化学若い研究者の会50周年記念連載 第2回 私の原点:25周年のころ

はじめに
会員も事務局も、時代とともにつぎつぎと人は入れ替わってきたにもかかわらず、”生化若手の会”が50年ものあいだ維持されてきたのは驚異的なことである。これは、”生化若手の会”が多くの若手研究者をひきつける魅力をもっているからだと思う。筆者は、1980年代に夏の学校やセンター事務局の運営にかかわった。また、本欄や過去の資料を集めて『生化学若い研究者の会のあゆみ1958~1988』を作成した。今回は、これらの経験の一部を紹介し、”生化若手の会”の魅力を考えてみたい。

第25回夏の学校
1985年に開催された第25回夏の学校は、大阪支部が準備・運営した。校長は伊勢川裕二君(現 大阪大学)、事務局長は筆者、分科会担当は原正之君(現 大阪府立大学)と亀山啓一君(現 岐阜大学)などであった。
節目の年にあたることから、①生化学研究の交流を行いその方向について考える、②生化若手の会の歴史を振り返り今後のあり方をさぐる、を基本方針に掲げた。メインの企画は、シンポジウム”生命科学って何?!――生命科学の歴史とそれを支えてきた研究者及びこれからの生命科学の方向性について”であった。
シンポジストには、”生化若手の会”にどのようにかかわり活動したのきあ、どのような考え方で研究に取り組んできたのか、を語ってもらった。大島泰郎氏(現 東工大名誉教授)は、初期の生化若手の会ででは幅広く多くの問題を取り上げ、生化学会もこれに協力的・好意的だったと述べた。研究の面では、”なぜ○○でなければならないのか”ということを考える、”おもしろいと感じたことのなかから人がまだやっていないことをやる”という姿勢を貫いてきたと語った。太田成男氏(現 日本医科大)は、オーバードクター実態調査や若手推薦理事に言及した。研究的には、誰もやっていない仕事をより早くやりたい、誰でもできる仕事は人より早くやりたい、と述べた。宗川古汪氏(現 京都工繊大名誉教授)は、学問的側面での発現を積極的にすべきである、生化若手の会は会員の本音を吸収し、組織化・普遍化していくことをめざすべきだ、と指摘した。小笠原直毅氏(現 奈良先端大)は、何のために研究をするのか、生化学はやるに値するのか、ということをつねに問いつづけ、その解答を見いだすべくやっていくことが重要だったと語った。
討論では、若手研究者のきびしい現状があらためて明らかにされるとともに、若手として批判すべき点を批判しつづけること、自分を高め自分の理想を創造しながら自己評価する必要があること、が鋭く提起された。生化若手の会は批判力をもった個人の結集として運動をしていくことが大切であることなどが確認された。こうして、”参加者の多くがこのシンポジウムによって活性化され、近年になく夏の学校を通して活性な状態で終えられた…”のである(伊勢川君による)。

さいごに
筆者は、”生化若手の会”に主体的・積極的にかかわることのなかから多くのことを学び、たくさんの友人を得ることができた。困ったときにはみんなが助けてくれた。夏の学校事務局の大阪支部が人数不足でいたらないところを、参加者や講師の方々がどれだけ補ってくれたことか。事務局のメンバーとは問題を共有し解決の道を探った。楽しく、明るく、笑って好きな仕事をしてもらうことの大切さなどを知った。
“生化若手の会”での経験は、現在までの教育活動・研究活動につながっている。夏の学校でのシンポジウムをもとにした『生化若手年表』の作成は、現在の筆者の家政学史研究のひとつの契機だったことにも思いあたる。”生化若手の会”は筆者の原点である。

倉元綾子(鹿児島県立短期大学)


12月| 生化学若い研究者の会50周年記念連載 第3回 生化学から分子生物学、そして、ゲノム科学へ

 本校の執筆にあたって、”生化学若い研究者の会発足について”筆者が1958年に『生化学』誌に投稿した文章を生化若手の会から送ってもらった。これを読み返してみても、札幌で開かれた生化学会で学会理事会と交渉をした記憶はほとんどよみがえってこない。ところが、学会のあと、生まれて初めて足を踏み入れた北海道の旅は鮮明に覚えている。そのころの北海道は貧しかった。札幌から旭川への満員列車でこの旅のため父にもらった時計を掏り取られ札幌の狸小路の露店で手に入れた作業ズボンは、誤って川に落ちた翌日、物干し竿につるされて半ズボンに縮まっていた。このような苦労のあと登った大雪山黒岳の頂上にはコマクサが咲き乱れ、夢に見たウスバキチョウが舞っていた。”国破れて山河あり”を目の当たりにして、筆者の生物学研究への志が固まった瞬間であった。

朝鮮戦争が終わって、わが国の経済は復興し社会は落ち着きを取り戻していた。大学や学界もそのころには国際生化学会が開催されるほど再生していた。しかし、庶民や若者は貧しく、なによりも、戦後の民主化運動と戦前からの封建的体質との相克が社会の各層に顕在化し、1960年の安保闘争を控えた労働運動が激化しつつあった。大学の研究室の状況も例外ではなく、筆者が『生化学』誌に投稿した文章にも”生化学の研究の困難な状況や若い研究者のおかれている苦しい立場が明らかにされた”と記されている。生化学研究の困難な状況がなにをさすのか、いまとなっては詳らかではないが、おそらく、大学の研究室における徒弟制度的な閉鎖的環境に対する危機感と、わが国の生化学と世界の新しい生物学の展開とのあいだのギャップを敏感にとらえていたのだと思う。

結成された生化若手の会は、奨学金の増額やポスドク制度の実現など生活に直結した課題をとりあげているが、会員募集要項に”自分の研究内容を詳しく書いた名簿に会費を添えて送る”と書かれているように、若手が新しい学問を引っ張るという意欲が感じられる。ポスドク制度もたんに生活費を確保することではなく、所属する研究室を離れ自らの意志で研究分野を変えることができる機会をあたえることを重視したと記憶している。筆者自身は発足したばかりのこの制度を利用して基礎医学分野への転身をはかったのだが、異分野への申請が不利にはたらいて補欠の1号となり実現できなかった。

これを機会に渡米し分子生物学の道を志した。筆者自身は細菌染色体の複製の分子機構と制御の研究を行ったが、9年間の在米中、多くの研究者との交流のなかでさまざまな研究方法や実験デザインを学ぶことができた。なかでも、尊敬するA. Kornberg博士とは、DNA研究について細胞レベル (in vivo) の理論的・実験的解析を重視する筆者と、精製酵素によるin vitro研究をモットーとする博士との方法論の違い、メリットとデメリットについてよく話し合ったものである。2人の議論は共通の友人である岡崎令治さんによって見事に決着をつけられた。in vivoのDNA合成の中間体を、精製酵素を用いた解析によってみごとに証明し、岡崎フラグメントによる不連続合成機構を明らかにしたのである。

1969年に帰国したのちは日本分子生物学会の創設に参加し、生化学会や若手の会とは距離をおくようになった。1995年、分子生物学会の学会長をひき受けているとき、因縁の地である北海道で生化学会との合同年会を開くことを計画した。筆者の狙いは、2つの学会の若い研究者が直接に交流することによって分子生物学と生化学の共通と違いを認識し、新しい研究方法の創出につながるような運動を起こすことであった。そののち十年あまりがたって、合同年会の開催が習慣のようになってきているが、若い研究者のあいだに筆者が狙った効果は生まれているだろうか。一方、ゲノム科学に代表される生物学と情報科学とを融合した新しいサイエンスが世界の若い研究者をひきつけている。筆者は昨年、いち早く新しい波に乗った微生物研究者とともに日本ゲノム微生物学会を創設した。筆者のような高齢者に負けず、生化若手の会は、生化学の枠組みにとらわれず、自分たちが生物科学研究を先導するのだという意気込みを忘れないでほしい。

吉川 寛
(大阪大学名誉教授、奈良先端科学技術大学院大学名誉教授、生化学若い研究者の会発起人)